マインツ大司教位の奪い合い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:27 UTC 版)
「レオ10世による贖宥状」の記事における「マインツ大司教位の奪い合い」の解説
マインツ大司教位は、ドイツの聖職者の最高位であると同時に、7つしかない選帝侯位の1つである。聖界諸侯位なので、世俗諸侯と違ってその位は世襲制ではない。そのためマインツ大司教位はドイツ諸侯の家門政策のためにはぜひ手に入れたい地位だった。15世紀の終わりにはザクセン選帝侯を世襲するエルンスト家がその座を獲得した。同家嫡男のフリードリヒ3世(賢公)がザクセン選帝侯となり、次男エルンスト2世(ドイツ語版、英語版)がマクデブルク大司教、三男アダルベルト3世(ドイツ語版、英語版)がマインツ大司教に就いた。ザクセン選帝侯家は7つの選帝侯位のうち2つ占めることになり、栄華を誇った。 しかしアダルベルトはわずか2年で若死にしてしまう。さらに1513年にエルンスト2世も死んでしまうと、エルンスト2世が持っていたマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位は、ブランデンブルク選帝侯位をもつホーエンツォレルン家の手に渡ってしまった。おまけに1514年に当時のマインツ大司教が死ぬと、マインツ大司教位までホーエンツォレルン家のものとなった。これによりホーエンツォレルン家が選帝侯位を2つ有することになった。この頃のホーエンツォレルン家はどちらかと言えば新興で、長くドイツで大きな勢力を誇ってきたエルンスト家とはなにかと対立する存在だった。そのホーエンツォレルン家にマインツ大司教の座を渡してしまったのは、ザクセン選帝侯賢公フリードリヒ3世の無策が招いた失敗だったと評されている。
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