ドイツの領邦国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:12 UTC 版)
13世紀前半、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖職諸侯と世俗諸侯に対して上級裁判権、貨幣鋳造権、築城権などの諸権利を承認するに至った。さらに、13世紀半ばに皇帝不在の大空位時代に入ったことは、各地における諸侯の自立を決定的なものとし、領邦国家の形成が進んだ。1356年の金印勅書はさらに帝国の分権化を促進し、各地の領邦君主は領邦ごとの集権化を進めていった。この時期に領邦の数は300以上にのぼった。 16世紀、ハプスブルク家が強大化して領邦の自立性が脅かされたが、幾度かの宗教戦争を経てアウクスブルクの宗教和議が成立したことで、領邦は領内における宗教選択権を獲得した。こうして領邦教会体制が成立したことは、皇帝・教皇の干渉から領邦を一層自立させることになった。 1648年、ヴェストファーレン条約において、各領邦の主権が一応は容認され、およそ300の領邦国家が成立した。これはあくまでも理念上の話であり、実際に主権国家としての地位を固めたのはごく少数の大諸侯領のみであったが、彼らは領内貴族の勢力を抑え、財政を安定させて官僚制と常備軍を養成した。こうして、隣国フランスが「絶対王政」下で中央集権化を進めるのに対し、ドイツでは各地の領邦国家ごとに集権化が進められたため、近代において統一的な国民国家を形成するのが遅れることになった。
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