ライプツィヒの分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:52 UTC 版)
「ザクセン=ヴァイマル」の記事における「ライプツィヒの分割」の解説
15世紀末、ヴァイマル近くを含む現テューリンゲン州にあたる地域の大半はヴェッティン家のザクセン選帝侯の領地であった。1485年のライプツィヒ条約(英語版)により、ヴェッティン家領はザクセン選帝侯エルンストとその弟ザクセン公アルブレヒト3世の間で分割され、エルンストは選帝侯位とテューリンゲン西部の領地を獲得した。 エルンストの孫であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはルター派のシュマルカルデン同盟の反乱に加担した結果、ハプスブルク家の皇帝カール5世に敗れて捕縛され、法益剥奪された。彼は1547年のヴィッテンベルクの降伏(英語版)で選帝侯位を放棄したが、1552年のパッサウの和約でテューリンゲンの領地を保持できた。1554年にヨハン・フリードリヒが死去すると、息子のヨハン・フリードリヒ2世が「ザクセン公」として後を継いだ。彼はゴータに居を構え、選帝侯位を奪回しようとしたが、盗賊のヴィルヘルム・フォン・グルンバッハ(英語版)男爵に焚きつけられて1566年に起こした反乱では皇帝マクシミリアン2世によって法益剥奪され、死去まで投獄された。
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