ライプツィヒ・ベルリン・イタリア
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「ヨハン・クリスティアン・バッハ」の記事における「ライプツィヒ・ベルリン・イタリア」の解説
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの第11男としてライプツィヒに生まれる(末子)。父親からだけでなく、おそらく父親の又従兄弟ヨハン・エリアス・バッハからも音楽教育を受ける。『平均律クラヴィーア曲集 第2巻』は、ヨハン・クリスティアンの教育のために作曲されたと見る向きもあった。少年時代は、父親のコピイストを勤めたこともある。1750年に父親が他界すると、ヨハン・クリスティアン少年は、フリードリヒ大王とその妹アマーリエ王女に仕える、ベルリンの異母兄カール・フィリップ・エマヌエルの家庭に引き取られ、音楽を中心に教育を受ける。 同地でハッセの音楽やイタリア歌劇に感銘を受け、ひそかにイタリア留学を決行、1754年にボローニャのジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニに対位法を師事し、1760年から1762年までミラノ大聖堂オルガニストを務め、ミサ曲やレクイエム、テ・デウムなどの宗教曲を作曲した。1757年にルター派からローマ・カトリックに改宗、また1760年にはトリノで最初のオペラ『アルタセルセ』が初演された。1761年にはナポリで『ウティカのカトー』、1762年1月には『インドのアレクサンダー』を上演し、いずれも成功をおさめた。台本はすべてピエトロ・メタスタージオのものであった。これを機に、ヴェネツィアやロンドンからさらにオペラ創作の依嘱が舞い込むようになる。
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