ライプツィヒ大学の教授時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/11 07:13 UTC 版)
「クリスティアン・トマジウス」の記事における「ライプツィヒ大学の教授時代」の解説
トマジウスは、自然法をさらに研究するために法学部へ進学した。彼は、フランクフルトで学び、1684年にライプツィヒ大学で自然法の教授職を得た。彼は、1687年、ライプツィヒ大学の掲示板に、1687年から1688年にかけての冬学期においてドイツ語で講義を行うことを宣言した。これが、ドイツ啓蒙主義の始まりとなった事件である。 トマジウスが大学においてドイツ語の使用を敢行したのは、当時、大学が置かれていた状況と関係している。三十年戦争によって主権を獲得した領邦君主たちは、専制政治の確立に勤しみ、彼らの宮廷において重要な政治的決定を行った。このため、必然的に、領邦君主の宮廷が政治の中心舞台となった。このような状況下では、スコラ哲学はもはや政治にとって無用のものとなり、大学に代わる教育機関として、貴族学校や騎士アカデミーが続々と設立されるようになる。トマジウスの意図は、ドイツ語の使用によって大学を学外へと開き、そして、生徒たちに宮廷風の礼節を身に付けさせ、政治の場へ送り込むことであった。 しかし、トマジウスの試みは、大学からの反発のみならず、結局は宮廷側からも支持されないものであった。大学は、キリスト教の敬虔さと非世俗的な学究を是とした。このような大学の立場から見れば、世俗に塗れた宮廷が教育の目標になるなどということは、考えられなかった。反対に、宮廷は、重大な政治問題が大学で教育されるということを、厚かましくて大胆なことだと受け取った。
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