ライプツィヒ放送管弦楽団首席指揮者および客演指揮者
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「カール・シューリヒト」の記事における「ライプツィヒ放送管弦楽団首席指揮者および客演指揮者」の解説
1930年代初頭のライプツィヒでは、後にトーマスカントル(ライプツィヒ聖トーマス教会およびライプツィヒ市音楽監督)となるギュンター・ラミンと競って放送局のオーケストラの首席指揮者の座を獲得 し、1931年から1933年までライプツィヒ放送管弦楽団の首席指揮者を務めた。前任者のアルフレート・センドレイはユダヤ系だったため、放送局から追放されていた。シューリヒトの指揮の下、このオーケストラはドイツで最も優れたラジオ・オーケストラに成長した が、ゲヴァントハウスの理事会は1934年にヘルマン・アーベントロートを採用した。 1933年にはオットー・クレンペラー(ユダヤ系のためアメリカに亡命)からベルリン・フィルハーモニー合唱団を引き継ぎ、1934年まで指揮した。そこでシューリヒトは、マルセル・ポートのアレグロ・シンフォニック、ボリス・ブラッハーのコンツェルタンテ・ムジーク(ブラッハーの出世作) や、ブラッハーのハムレットとカール・ヘラーのヴァイオリン協奏曲 の初演を担当し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(戦前にはポリドールに多数のSP録音を行う)を指揮した。1934年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。1937年から1944年にかけては、フランクフルト放送交響楽団の第一客演指揮者を務めた。1942年と1943年には占領下のパリでフランス国立管弦楽団に客演した。 パウル・ファン・ケンペンの退団後、1943年から1944年までドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の第一客演指揮者を務めた。第二次世界大戦末期(1944年8月)には、アドルフ・ヒトラーが承認したゴットベグナーデテン-リストの最も重要な指揮者に含まれていたため、本国戦線を含む戦時中の派兵を免れた。1944年10月1日にシューリヒトはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任した。音楽評論家のカール・ラウフは、その年の7月に『ドレスドナー・ツァイトゥング』紙にカール・シューリヒトに関して陶酔的なコメントを書いている。彼を「我々の時代の最初の指揮者」の一人とみなし、ドレスデンの音楽文化について十分な見識を持っていることを証明しているとした。
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