ライプツィヒ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 19:56 UTC 版)
「国際軍事裁判所憲章」の記事における「ライプツィヒ裁判」の解説
第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議され、戦勝国であるイギリス・フランス・イタリアの連合国側は、第一次大戦後のパリ予備交渉で組成された15人委員会の報告においてドイツ皇帝ウィルヘルム2世を、国際道義に反したという理由から国際法廷による裁判にかけることを求めた。しかしアメリカ及び日本は第一次大戦のさいのオスマン帝国のアルメニア人虐殺に対して連合国側の15人委員会が「人道に反する罪」として取り上げたさいに「これを認めれば、国家元首が敵国の裁判にかけられることになる」として反対しており、またアメリカは国際法廷の設置そのものに前例がないとして反対している。15人委員会はアメリカなどの反対を考慮して、よりマイルドな戦犯裁判を提案しドイツ人901名の戦犯リストを作成したが、ドイツは国際法廷ではなくドイツのライプツィヒ最高裁で国内法により戦犯を裁くことを提案し、連合国もこの提案で合意した経緯がある。結局ウィルヘルム2世については中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため皇帝への裁判は行われなかった。裁判は、十分な審理も行われず、少数の有罪確定者もすぐに釈放され、「茶番劇と化した」。
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