ライプツィヒ時代
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1970年にライプツィヒ市の楽長とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者(1970年-1996年)に就任した。 同時期、西ヨーロッパ・アメリカ・旧ソ連の主要オーケストラへ客演指揮も活発に行い、日本でもNHK-FM放送で頻繁に放送された。1979年には、読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任、何度も共演を繰り返してきた。また、東ドイツの指揮者としては異例のレコーディング数を誇るとされている。
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ライプツィヒ時代
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「イグナーツ・モシェレス」の記事における「ライプツィヒ時代」の解説
モシェレスはこの期間を通じて作曲と演奏旅行を続けていたが、収入面では音楽教師の仕事に大きく依存しており、これが彼にとってかなりのストレスとなった。そのため、1843年にライプツィヒ音楽院を設立したメンデルスゾーンは、友人である彼をそこでの講師として熱心に勧誘し、演奏活動と作曲に十分な時間の確保を約束した。モシェレスは喜んでこの申し出を引き受け、1847年のメンデルスゾーンの死後は音楽院の長となっている。 音楽院は事実上、メンデルスゾーンの音楽遺産を祭るための遺跡となっていた。1859年から1863年にかけてライプツィヒ音楽院でモシェレスから学んだ、批評家でピアニストのエドワード・ダンロイターは後にこう記している。 […]噂によれば、お偉いさんが二人で音楽院のピアノ室にこもって、自分たちだけでメンデルスゾーンのニ短調協奏曲をさらうのを常としていて、しかもそれが日曜の夜12時半から夜明けまで続くそうだ!もうきっと、惰性でやってるんだろう。 そういう具合だったので、リヒャルト・ワーグナーがメンデルスゾーン(とマイヤベーア)を悪名高い彼の著作 Das Judenthum in der Musik(音楽界のユダヤ人たち)の中で口汚く攻撃した際、モシェレスは反撃の旗手となった。彼はワーグナーの著作の編集者であるブレンデルに対し音楽院の評議員の職を辞すように要求した。モシェレスはメンデルスゾーンと同じく、バッハからベートーヴェンの時代で音楽は黄金期に達してしまったと信じていたため、ワーグナーやリスト、エクトル・ベルリオーズが示そうとしていた新たな音楽の方向性には懐疑的であった(ただし、必ずしも敵対的であったわけではない)。にもかかわらず、彼の誠意ある個人的な関係は、これら全ての人びと(ワーグナーは入っていなかっただろうが)との間でも変わることはなかった。イギリスにおけるメンデルスゾーンの面影といえば、ライプツィヒ音楽院がイギリス人音楽家の間から高い評価を受けていたことと、またモシェレスの時代に音楽院で学んだ学生の中にアーサー・サリヴァンとチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードがいたことであった。 モシェレスは最後にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のリハーサルに立ち会って9日後、1870年3月10日にライプツィヒで没した。 モシェレスの弟子にはフェリックス・メンデルスゾーン、ズデニェク・フィビフ、タールベルクらがいる。
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ライプツィヒ時代
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「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の記事における「ライプツィヒ時代」の解説
ケンブリッジ大学音楽科教授を退き王立音楽アカデミー監督になっていたウィリアム・スタンデール・ベネットの推挙により、スタンフォードは1874年の夏期、ライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽院の作曲科、ピアノ科教授であったカール・ライネッケのレッスンを受けた。作曲家のトマス・ダンヒルが述べたところによると、1874年というのは「ライプツィヒの覇権の終焉であった。メンデルスゾーンの偉大なる伝統が失われつつあったのだ。」にもかかわらず、スタンフォードは学びの地に別の場所を選ぶことを真面目に考えようとはしなかった。ダブリンもロンドンも、ライプツィヒに並ぶような音楽教育の場とはなり得なかったからだ。英国で最も名高い音楽学校である王立音楽アカデミーはその頃、旧態依然で極めて保守色の強い状態だった。 スタンフォードはライプツィヒで、ベネットが自分を推薦した相手が王立アカデミーの教授陣に負けず劣らず革新性のないドイツ人の衒学者であったことを知り、うろたえた。スタンフォードはライネッケについてこう言ったのだった。「私がこれまでに知っている無味乾燥な音楽家の中でも、彼は最も干からびている。彼が現代の作曲科に関して好意的な言葉を発するのを聞いたことがない。・・・ワーグナーは気が進まないと言えば・・・ブラームスに対しては鼻で笑っており、何に対しても熱意というものを持ち合わせていないんだ。」これについてスタンフォードの伝記を記したパウル・ロッドメル(Paul Rodmell)は、ライネッケの「超」がつくほどの保守主義は予想外に生徒にいい影響を与えたのではないかと考える。「なぜなら、スタンフォードはそのおかげで伝統をなぞるスタイルと袂を分かつことになったのだろうから」。ライプツィヒでの期間、スタンフォードは聖ニコラス教会 のオルガニストであったロベルト・パッパーリツ(Robert Papperitz)(1826-1903)にピアノを習ったが、これは彼にとってより有意義なものであった。 1874年にスタンフォードが作曲した中に、ロングフェローの「黄金伝説 The Golden Legend」という詩を基にしたものがある。彼は詩全体に対して曲をつけようとしたが、ロングフェローの「たくさんの無関係な登場人物たち」に負け、これを諦めた。スタンフォードはいっぱしの作曲家となって作品番号の割り当てを行った時、これや他の初期作品を無視した。彼の公式目録に掲載されている最初の作品は、1875年の「ピアノのための組曲」と「ピアノのためのトッカータ」である。 スタンフォードは1875年に、二度目のライプツィヒ滞在をしてライネッケのもとで過ごしたが、これは一回目同様に非生産的なものであった。その後彼はヨアヒムより、次の年はベルリンに来てフリードリヒ・キールのに付いて学んではどうかと勧められる。キールに関して、スタンフォードは「同情的で腕の立つ達人だとすぐにわかった。・・・私は3か月の間に、3年間で他の誰から学んだことよりも多くのことだった。」と述べている。
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ライプツィヒ時代 (1723年-1750年)
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「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の記事における「ライプツィヒ時代 (1723年-1750年)」の解説
1723年、バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任する。 1722年6月5日に、トマス・カントル、ヨハン・クーナウが死去し、後任の募集が行われた。まず、候補として挙がった人物が、市民の人気を博し知名度も高かったテレマンだったが、彼はラテン語を教えることを拒み、かつハンブルクでの昇給が約束されたため、辞退した。バッハの名は同年12月21日に市参事会の議事録に登場するが、この時点で既に8人の名が挙げられていた。その次に、候補として挙がった人物が、ダルムシュタットの宮廷学長クリストフ・グラウプナーで、1723年1月17日に2曲のカンタータを上演し大成功を収めたが、その時の主君ヘッセン公が解雇を拒否し昇給をして彼を引き留めたため、同年3月23日に彼も辞退した。その次に、バッハとその他に、メンゼブルクの宮廷オルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマンと、ライプツィヒの新教会オルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3人の候補が挙がるが、3人とも学科の授業に難色を示しており、4月9日の議事録には「最良の人が得られなければ、中くらいのものでも採用しなければならない」という意見も上がっている。市長ランゲは4月22日の正式な選抜会議にて、2月7日に行われたバッハのクラヴィーア演奏を称賛しているが、バッハが採用された最大の理由は教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意した点だった。 こうして、5月5日正式の契約が結ばれ、15日には四半期分の給料が支払われた。バッハにライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲した。 1729年1月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣。ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出たが断られた。結局、バッハはヘンデルとの面会を強く望んでいたものの、ヘンデルとの面会は生涯実現することはなかった。当時のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名であり、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。 1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を、長男のヴィルヘルム・フリーデマンを随伴させて訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。 しかし1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れた。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命した。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていた。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなった。 翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れた。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けた。手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べた。しかし実際には、手術は失敗していた。テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったという。 2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、7月28日午後8時40分に65歳でこの世を去った。なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっている。
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