第一次世界大戦後の戦争犯罪概念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:42 UTC 版)
「戦争犯罪」の記事における「第一次世界大戦後の戦争犯罪概念」の解説
第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された。戦勝国であるアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・日本等の連合国10ヶ国は、パリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」(The Commission on the Responsibility of the Authors of the War and on the Enforcement of Penalties)を設立した。この委員会は国家元首をも含む戦争開始者の訴追や、対象が複数国にまたがる残虐行為戦犯を裁くための裁判所を設置するなどの報告書を提出した。この報告書は講和会議では採用されなかったが、ヴェルサイユ条約第227条である「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を特別裁判所に訴追するという条項となって反映されている。この訴追は中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった。 またパリ講和会議では「戦争に関する責任を調査する十五人委員会」(en:Commission of Responsibilities)が戦争犯罪の概念として「戦争の法規及び慣例違反」というリストを作成し、残虐行為を行ったとする戦犯45人をリストアップした。この戦犯はヴェルサイユ条約によってドイツ政府自身で裁くことが定められ、1921年からライプツィヒで裁判が開始された。しかしこのライプツィヒ裁判(en:Leipzig War Crimes Trial)は、幾人かに短期間の懲役刑が下されたのみであり、大半は無罪となった。また政治・軍事指導者に対する訴追は行われなかった。 1920年には国際連盟の常設国際司法裁判所設立のための法律家諮問委員会は「国際公共秩序を侵害し、あるいは諸国の普遍的法に反する犯罪」を裁く国際高等裁判所設置を提案した。同様の提案は1922年、1924年、1926年にも行われているがいずれも成立しなかった。
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