第一次世界大戦後の平和解決と地政学的状況に関する見解
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「アーノルド・J・トインビー」の記事における「第一次世界大戦後の平和解決と地政学的状況に関する見解」の解説
1915年に発表した著書"Nationality & the War"(民族とこの戦争)で、トインビーは、第一次世界大戦後の平和条約の策定に向けて、民族(nationality)の原則に基づいて策定することを主張した。また、1916年に出版された"The New Europe: Essays in Reconstruction"(新しいヨーロッパ: 復興についてのエッセイ)の第4章で、トインビーは、「自然国境」(natural border)という概念を批判した。トインビーは、この概念を「自然国境を獲得するために、さらに戦争を起こすことが正当化される」と批判した。さらにトインビーは、ある国が自然国境を獲得すると、その国はさらに別の自然国境の獲得を目指そうとすると指摘した。例えば、ドイツ帝国は1871年に西の自然国境をヴォージュ山脈に設定したが、第一次世界大戦中、一部のドイツ人はさらに西の自然国境、具体的にはカレーとイギリス海峡までの自然国境を主張し始め、第一次世界大戦でドイツが征服したばかりのベルギーとフランスの領土をドイツが永久に保持することを正当化した。トインビーは、自然国境の概念に代わるものとして、経済的に相互につながっている様々な国の間での自由貿易、パートナーシップ、協力を非常に容易にすることを提案しており、そうすれば、自然国境にかかわらず、国がさらに拡大する必要はなくなる。さらに、トインビーは、国境を、より民族自決の原則に基づいたものにする、すなわち、ある地域や領域の人々が実際に住みたいと思った国を基準にするようにすることを提唱した。この原則は、第一次世界大戦後の講和において、(一貫性はないが)実際に守られたことがある。第一次世界大戦後の20年間に、シュレースヴィヒ、上シレジア(英語版)、マスリア(英語版)、ショプロン、ケルンテン、ザールなどで行われた、これらの地域の所属国を決めるための住民投票である。 トインビーは"Nationality & the War"の中で、ヨーロッパ内外の国々の将来について、様々な提案や予測を行っている。例えば、フランスとドイツの間で起きているアルザス=ロレーヌ紛争について、トインビーは、その将来の運命を決めるために住民投票を行うこと、この住民投票では、アルザスは相互につながっているため、一つの単位として投票されることを提案している。トインビーは同様に、シュレースヴィヒ=ホルシュタインについても、その将来の運命を決めるために住民投票を行うことを提案しており(実際、最終的に1920年にシュレースヴィヒで住民投票が行われた)、その際に彼は、ドイツとデンマークの新たな国境としては、言語境界(英語版)が最適であると主張していた。ポーランドに関しては、トインビーは、ロシア帝国の支配下にある自治的なポーランド(具体的には、ロシアと連邦関係にあり、少なくともガリツィア・ロドメリア王国におけるポーランド人に匹敵する程度の内政自治(英語版)と自己決定権を持つポーランド)を創設し、ロシア、ドイツ、オーストリアのポーランド人を一つの主権と政府の下に置くことを提唱した。トインビーは、第一次世界大戦で中央同盟国(オーストリア・ドイツ)が勝利した場合、ポーランドの統一は不可能であると主張していた。それは、勝利したドイツは、自国のポーランド領土(戦略的に重要であり、なおかつドイツ化(英語版)したいと考えている)を、自治国または新たに独立したポーランドに譲渡することを望まないからである。トインビーはまた、上シレジア、ポーゼン州(英語版)、ガリツィア西部の大部分をこの自治国ポーランドに与えることを提案し、マスリアでの住民投票の実施を提案(実際に1920年にマスリアで住民投票が行われた)する一方で、ドイツには、後にポーランド回廊となる部分を含む西プロイセンの全てを残すことを認めた(ダンツィヒは自治国ポーランドが使用することができる自由都市とした)。オーストリア=ハンガリーに関しては、トインビーは、オーストリアがガリツィアをロシアと拡大されたロシア領ポーランドに譲渡し、トランシルヴァニアとブコヴィナをルーマニアに譲渡し、トレンティーノ(トリエステと南チロルは含まない)をイタリアに譲渡し、ボスニア、クロアチア、スロヴェニアを放棄して、そこに新たな独立国家が形成されるようにすることを提案した。トインビーは、オーストリアにはズデーテン山地の戦略的位置を考慮してチェコを残し、ハンガリーにはスロバキアを残すことも提唱した。また、ベッサラビアをロシアとルーマニアに分割し、ロシアはブジャクを、ルーマニアはベッサラビアの残りの部分を獲得することを提唱した。ただし、ルーマニアがロシアのオデッサ港を利用することは支持しており、その場合、ルーマニアの貿易量は2倍になるとしている。 トインビーは、ウクライナ(小ロシア)については、内政自治(英語版)も連邦制も否定した。トインビーが連邦制に反対したのは、連邦制になったロシアは分裂しすぎて統一された重心を持つことができず、かつてアメリカ合衆国が一時的に分裂(南北戦争)したように、断片化して分裂する危険性があるという懸念からであった。トインビーは自治権の代わりに、ロシア帝国の大ロシア地域でウクライナ語を公用語にして、ウクライナ人(小ロシア人)が大ロシア人の劣等生としてではなく、大ロシア人の仲間としてロシアの政治家の一員になることを目指すことを提案した。トインビーはまた、ウクライナ語がロシアで公用語化されてもロシア語に対抗できないのであれば、ロシア語の優れた生命力をきっぱりと証明することになると主張した(トインビーによれば、ウクライナ語は農民のバラッドを書くのにしか使われていないのに対し、ロシア語は偉大な文学を書くのに使われている)。 トインビーは、今後のロシアの拡大について、ロシアが外モンゴルやタリム盆地を征服することを支持し、アメリカが米墨戦争で1847年にメキシコからメキシコ割譲地(具体的にはヌエボ・メヒコとアルタ・カリフォルニア)を征服したように(この征服は、当時は広く批判されたが、最終的にはアメリカ側の正しい行動であったとトインビーは指摘している)、ロシアがこれらの地域を改善し、活性化することができると主張した。また、トインビーは、ロシアがオスマン帝国のポントスとアルメニア6州(英語版)の両方を併合するという案を支持する一方で、英露がペルシャを分割するという案は、ペルシャにおける英露双方の利益を満足させることができないため、現実的ではないと否定した。その代わりに、(必要であれば外国の援助を受けて)ペルシャに独立した強力な中央政府を作り、それによって自国の利益と英露の利益を守るとともに、英露がペルシャに対して帝国主義的・略奪的な意図を持つことを防ぐことを主張した。さらに、アフガニスタンで再び問題や不安が生じた場合(これは時間の問題とトインビーは考えていた)、トインビーはアフガニスタンをロシアと英領インドの間で、ヒンドゥークシュ山脈の稜線に沿って分割することを提唱した。このようにアフガニスタンを分割すれば、アフガン・トルキスタン(英語版)はロシア・トルキスタンの主にテュルク系民族と統一され、アフガン・パシュトゥーンはイギリス領インドのパキスタン・パシュトゥーンと統一されることになる。トインビーは、ヒンドゥークシュ山脈をロシアと英領インドの間の理想的な不可侵の境界と見なしており、どちらか一方が通過することは不可能であり、したがって双方の安全(相手の侵略からの保護)を確保するのに適していると考えていた。
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