サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:02 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ(Santa Fé de Nuevo México)は、16世紀後半から19世紀前半まで存在したヌエバ・エスパーニャのスペイン領の州の名称。現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州のほとんどを含む、リオ・グランデ川の上流域(リオ・ブラボ・デル・ノルテ)のエリアを中心に作られた。首都は現在のサンタフェに置かれた。
この州は1598年にフアン・デ・オニャーテのヌエバ・エスパーニャから北の探検により創設された。探検はフェリペ2世によって認可され、1588年のスペイン艦隊の悲惨な敗北に続いて、スペイン帝国の財宝を回復する願望によってある意味動機づけられたものだった。スペイン人たちは、以前に征服したアステカのような黄金都市の伝説が、北部の未開の領地に眠っていると信じていたが、オニャーテはそんな都市を見つけることができなかった。彼は後に、州の最初の知事となる。オニャーテはヌエバ・エスパーニャとは別の副王領として州を変えることを望んだが不首尾に終わった。スペインは、1680年のプエブロの反乱で、この領地から12年間追放され、1692年のディエゴ・デ・バルガスによる「無血の」再占領によって戻ってきた。州は、1810年のメキシコ独立宣言まではスペインの支配下にあり、1824年のメキシコ憲法の下ではメキシコ合衆国の連邦政府によって管理されるようになった。
かつての州のリオ・グランデ川東部エリアは、1836年にテキサス共和国が領土権を主張したが、メキシコ側は反駁した。テキサス人は、1841年に要求した土地を占領する遠征を送ったが、メキシコ軍部隊によって撃退された。1848年、テキサス併合とメキシコ割譲により、このエリアはアメリカ合衆国の一部となった。ニューメキシコは、1912年1月までは合衆国の州制にならなかった。
ヌエボ・メヒコ
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「フアン・デ・オニャーテ」の記事における「ヌエボ・メヒコ」の解説
1595年、オニャーテは1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナドが探険したリオ・グランデ川上流域を植民地化せよとのスペイン王フェリペ2世の命令を受けた。彼の目標は、カトリックを広め、伝道所を創設することだった。オニャーテは1598年に探険を開始し、4月後半に現在のシウダー・フアレス – エルパソ間のリオ・グランデ川を徒歩で渡った。4月30日、オニャーテはスペインによるリオ・グランデ川以北のヌエボ・メヒコ領有を宣言した(ラ・トマ宣言)。その夏、 オニャーテの探検隊はリオ・グランデ川に沿って現在のニューメキシコ州北部へと進み、プエブロ人の集落の中で野営した。彼はサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ州を創設し、自ら州の最初の総督となった。探検隊の隊長を務めたガスパール・ペレス・デ・ビリャグラ(Gaspar Pérez de Villagrá)は、オニャーテによるニューメキシコの先住民たちの征服を、1610年の著書『ヌエボ・メヒコの歴史』("Historia de Nuevo mexico"))に記録した。 オニャーテの冷酷で容赦ない支配者という評判は、スペイン人植民者と先住民の両方の間で高まった。1598年10月、オニャーテの占領軍がアコマ・プエブロから食糧を徴収しようとした。冬を越すための貴重な食糧の備蓄を守ろうとしたアコマ・プエブロは抵抗し、オニャーテの甥を含む13人の隊員が殺されるという事件が起きた。翌年オニャーテは報復し(アコマ虐殺)、800人のアコマ・プエブロが殺害され、生き残った500人が奴隷にされた。オニャーテの命令で生き残った25歳以上の男性80人が片足を切断された。
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