第一次世界大戦後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 01:20 UTC 版)
「オスカー・フリート」の記事における「第一次世界大戦後の動向」の解説
フリートは、戦争の結果ベルリン楽壇が瓦解したため、いよいよ外国への客演指揮に依存せざるを得なくなり、ブダペストやミラノ、パリ、マンチェスター、コペンハーゲンなど、ヨーロッパ全土で巡演した。1916年にシベリウスの《交響曲第4番》のドイツ初演を、ベルリン新自由国民劇場(Neue Freie Volksbühne Berlin)において指揮した。1921年には、ロシア革命以降でレーニンに招聘された最初の外国人指揮者として、ボリショイ劇場でベートーヴェンの《第9交響曲》を上演し、1924年には新たにソ連への演奏旅行を引き受け、その後も頻繁にソ連に客演した。駅のプラットホームでレーニンの出迎えを受けたこともある。 レコード産業の開花と、長期間・広範囲に及ぶ契約によって、フリートはドイツ・グラモフォンに、そして再びベルリンに結び付けられた。1924年、このレコード会社に、指揮者として初めてマーラーの交響曲を全曲録音した。曲目は十八番のマーラーの《復活》、オーケストラはベルリン国立歌劇場管弦楽団であった。この演奏は「上々の成功」であり、「アコースティック録音にとって」「入念な計画と試み」が必要となる「非常に実験的な経験であった」と評された。同年フリートは、アントン・ブルックナーの《交響曲第7番》全曲の世界初録音に踏み切っている。フリートの遺産というべき数々の録音は、1934年まで、殊にベルリン国立歌劇場管弦楽団とともに制作された。 1925年にフリートは、ブリュートナー管弦楽団から発展し、新たに創設されたベルリン交響楽団の指揮者に就任した(このオーケストラは、今日のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のことであり、第二次大戦後に西ベルリンで創立されたものとは別団体である)。フリートは、ヨーロッパやソ連、アメリカ合衆国に演奏旅行に向かい、また1926年には、ウラジミール・ホロヴィッツの西欧デビューの際にチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調》を指揮した。
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