第一次世界大戦前後における列強、特に日米間の建艦競争
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第一次世界大戦は欧州に空前の惨禍をもたらしたが、直接国土が戦場とならなかった新興列強である日米両国には戦争特需の福音をもたらした。アメリカの戦艦10隻と巡洋戦艦6隻から成るダニエルズ・プランは当初想定の計画年度を1917~1921年度からさらに2年も縮め、わずか3年で全ての艦を建造する大計画となり、さらに1919年にはほぼ同規模の次計画さえ構想された。もっとも1917年の世界大戦参戦によってアメリカは戦時体制に移行し、中小型艦優先に組み替えられたことで主力艦の建造にはブレーキがかかり、計画の本格的再開は戦後を待つことになる。 日本もまた戦争特需で財政的な裏付けが得られたことから、長年の悲願であった戦艦8隻と巡洋戦艦8隻から成る八八艦隊実現の見通しがたった。1916年度の八四艦隊案を皮切りに1918年度の八六艦隊案、1920年度の八八艦隊案と段階的に計画は推進され、主力全艦の予算が成立した。日本はさらに八八八艦隊案構想をも検討しており、同案が実現すれば戦艦・巡洋戦艦を毎年3隻の割で起工し続け、艦齢24年として合計72隻もの保有量に達する規模となる。だが八八艦隊案成立の時点で、すでに軍事費の膨張は維持費のみで国家予算の3割を超えると試算されるほどになっており、財政破綻の危機が現実化しつつあった。 過熱する両国の建艦競争に対し、極東地域に権益を有するイギリスも無関係ではいられなかった。大戦に疲弊しかつての建艦競争を再現したくなかったイギリスではあるが、日米の戦力が拡張を続ける中座視するわけにもいかず、戦艦・巡洋戦艦各4隻の建造を決定した。 建艦競争を続けつつも、過熱状態にあるそれを沈静化させて財政負担軽減と地域安定化の必要性は関係国共通の認識となるところであった。各国とも軍縮の必要性は理解しており、世界大戦の惨禍が世論となりそれを後押しした。1921年にはワシントン軍縮会議が開催され、同会議にて成立した軍縮条約は建造・計画中の全ての主力艦の建造中止と、既存艦の相当部分の退役を求めるもので、敗戦したドイツと共産化により列強から離れたソ連を除く主要列強五カ国は互いの主力艦の保有量と性能を制限し、建艦競争を強制的に終結させた。以後同条約が破棄される1936年までを「海軍休日(Naval Holiday)」と呼び、過度の建艦競争が行われなかった時代として軍事史に刻まれる。
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