第一次世界大戦前後と「タトラ」の成立
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「タトラ (自動車)」の記事における「第一次世界大戦前後と「タトラ」の成立」の解説
レドヴィンカは、1914年から翌年にかけてモデルSシリーズより更に強力な「モデルT」シリーズを開発、これらは1920年代中期まで長きにわたって生産された(のちには「タトラ」のネームを付けて販売された)。だが1915年、新たに就任したネッセルドルフの新経営陣は、自動車部門よりも鉄道車両部門を重視する方針を採った。彼らと折り合いの悪くなったレドヴィンカは1916年に退社し、オーストリアのシュタイア社へ移った。 レドヴィンカはシュタイアで、ジョイントレス・スイングアクスルを使った後輪独立懸架車を設計しており、以後このタイプの独立懸架を多用するようになる。ジョイントレス・スイングアクスルは、古く1903年にドイツのアドラー社が開発したシステムで、独立懸架としては最も簡潔なものの一つである。差動装置とかさ歯車を別体とし、かさ歯車がそのまま車軸を揺動させるためのガイド兼ジョイントとなる構造である。左右それぞれの車輪に直結したハーフ・アクスルには、強度やコストの面で不利な自在継手を用いないのが特徴であった。 この方式はのちに、中・高速域での急激な姿勢変動を起こしやすいことから操縦安定性に難点があることが顕在化した。結果、1960年代以降は廃れることになる。しかし1920年代においては自動車の後輪に使用しうる唯一の独立懸架方式であり、その採用は極めて先進的な試みであった。 第一次世界大戦の敗戦でオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ネッセルドルフ市は新たに成立したチェコスロバキア共和国の区域に入った。街の名前もチェコ風のコプジブニツェへと変わり、ネッセルドルフ社もチェコ語名称のコプジブニツェ社(Kopřivnica vozovka a. s.)に改組された。 1919年、ブランド名を「タトラ」に変更している。名称は、スロバキアとポーランドとの国境、カルパチア山系にそびえる名山・タトラ山(最高峰は海抜2,655mのGierlach峰)に由来する。試作した4輪ブレーキ装備車をタトラ山地でテストしたことからのネーミングである(チェコとスロバキアは1993年に分割されるまで一体の国であった)。
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