第一次世界大戦前夜のフランス
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「フランスの歴史」の記事における「第一次世界大戦前夜のフランス」の解説
詳細は「政教分離法」を参照 ドレフュス事件によって失墜した穏健共和派に代わって1899年6月に成立した急進左派連合による内閣は「共和国防衛内閣」と呼ばれ、1901年にはフランス初の本格的な政党である急進社会党がクレマンソー主導のもと結成され、翌1902年の下院選挙では急進社会党はじめ社会党といった左派政党による「左翼ブロック」が形成され、連立与党となった。急進派内閣は反教権主義的な共和主義政策を徹底させ、1901年に成立した結社法では、あらゆる結社の設立の自由が認められたが、他方で修道会にはこれが適応されず、1902年に首相となったエミール・コンブ(フランス語版)内閣では多くの無認可修道会が解散され、彼らが運営していた学校も閉鎖された。1904年には修道会教育禁止法が制定され、修道会は教育への関与が一切禁止され、フランスとバチカンとの外交関係も途絶し、多くの修道士、修道女がフランスから亡命した。こうした反教権主義政策の総仕上げとして成立したのが1905年の政教分離法である。政教分離法の成立によって19世紀初頭にナポレオン1世によって結ばれたコンコルダートは破棄し、国家や地方公共団体の宗教予算は廃止され、フランス革命以来続いていた共和派とカトリックとの争いに決着がついた。以降、フランスは世俗性、非宗教性を意味する「ライシテ」が国家原理として定着し、信教の自由が保障されるなど、カトリック教会にも必ずしも不利となるものではなかったが、教会財産の強制立ち入り調査などをめぐっては国家と教会は激しく対立し、抵抗運動なども見られた。 政教分離法が制定されると、「左翼ブロック」による連立は存在意義を失い始め、階級対立が全面に出て、1906年に首相に就任したクレマンソーは累進課税法案の提出や労働災害法、退職年金法の成立などによって労働者保護政策を推める一方で、CGT(労働総同盟)書記長ヴィクター・グリフュール(フランス語版)の指導にあった革命的サンディカリスムを弾圧した。こうした弾圧はしばし流血を伴い、急進党の政策は批判され、1909年にクレマンソーが辞任すると、後継内閣として成立したブリアン内閣は、それまで急進派が批判してきたオポルチュニスム体制へと変容していった。 1904年よりフランスはドイツからの主にモロッコに対する干渉が度々起こり、それらは1911年のアガディール事件でのフランス領コンゴの一部割譲という形で同年、首相に就任したばかりであったジョセフ・カイヨー(フランス語版)によって理性的に処理されるも、こうした領土割譲による平和の実現は、普仏戦争敗戦によるアルザス=ロレーヌ割譲の屈辱を想起させ、ナショナリストらを中心に大きな非難がなされた。これによって翌1912年1月に崩壊したカイヨー政権に代わって、ロレーヌ出身で対独強硬派のポワンカレが首相に就任する。3月にはフェズ条約が締結され、モロッコはフランスの保護国となった。
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