第一次世界大戦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:51 UTC 版)
1921年(仏暦2464年/大正10年)日本は再び修好通商条約を結ぼうとした。今度の条約では日本人の土地所有を認めさせたり、タイの裁判所に日本人弁護士を設置しようとするものであった。しかし、タイは第一次世界大戦に参加して戦勝国となり国体的地位をある程度認められていた上に、国際的に不平等条約撤廃という動きのある中で、日本のより進んだ不平等条約は受け入れられないものであった。このため日本は1924年(仏暦2467年/大正13年)3月10日にアメリカが1920年に調印したものと同内容の修好通商条約を締結した。これは後にタイが立憲革命を経て法典整備を完了すると、欧米諸国とともに不平等条約を撤廃するに至る。 立憲革命を支援した駐シャム特命全権公使矢田部保吉の働きかけにより、満州事変の際、リットン調査団報告書の承認に関する国際連盟総会における決議で、タイが棄権票を投じた。しかしながらこれは、欧米にも日本にも、どちらにも肩入れできないタイにとって、苦渋の選択による中立であった。しかしこのタイの姿勢は、日本に好意的に解釈され、松岡洋右代表による「タイは日本のために賛成票を投じなかった。欧米はこのことを教訓にすべきだ。友好国タイを攻撃するものがあれば日本は全力でタイを守る」との旨のコメントが新聞に発表され、日本から感謝の電報が送られた。1931年にはラーマ7世が訪日した。 詳細は「松岡洋右#ジュネーブ総会派遣・連盟脱退」および「立憲革命 (タイ)#結果」を参照 「プラヤー・パホンポンパユハセーナー#首相就任」および「日泰攻守同盟条約#背景」も参照 なお矢田部の支援により起草されたタイ王国憲法は、大日本帝国憲法(明治憲法)を参考にしたことは言うまでもない。特に王制や立法府制度の根幹は21世紀になった今でも形を変えつつ堅持されており、この結果日本とタイは事実上明治憲法の理念を共有した兄弟国となった。 詳細は「タイ王国#日本」および「タイの政治#国家元首」を参照
※この「第一次世界大戦以後」の解説は、「日泰関係」の解説の一部です。
「第一次世界大戦以後」を含む「日泰関係」の記事については、「日泰関係」の概要を参照ください。
第一次世界大戦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:53 UTC 版)
1918年11月3日の休戦協定以降、イタリアは南チロルに軍を駐留させた。1919年9月10日に調印されたサン=ジェルマン条約によって南チロルおよびトリエントはイタリア王国へと割譲され、「ボルツァーノ県」「トレント県」となった。このほか、ティロール伯領に含まれていたコルティーナ・ダンペッツォとリヴィナッロンゴ・デル・コル・ディ・ラーナがイタリア領に移っている。残る地域は第一共和政オーストリアの連邦州「チロル州」となった。 イタリア王国の統治下では、地域をかつての「チロル」の名称で呼ぶことは禁止された。1922年にムッソリーニ政権が誕生すると、イタリア化政策が推進された。一方、1938年には独墺合邦(アンシュルス)が行われ、チロル州はドイツ領となった。1939年、ムッソリーニとヒトラーは、南チロル/ボルツァーノ県の住民に、ドイツ領土に移住させるかイタリア国内で同化させるかすることで合意する (South Tyrol Option Agreement) 。 第二次世界大戦後期の1943年、イタリア王国(バドリオ政権)が連合国に降伏すると(イタリアの講和)、直ちにドイツ軍はイタリア北部を占領した。名目上イタリア社会共和国に属するとされたものの、事実上ドイツに編入された。
※この「第一次世界大戦以後」の解説は、「チロル」の解説の一部です。
「第一次世界大戦以後」を含む「チロル」の記事については、「チロル」の概要を参照ください。
第一次世界大戦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 09:10 UTC 版)
「日本とエチオピアの関係」の記事における「第一次世界大戦以後」の解説
第一次世界大戦終結後、1919年1月に開催されたパリ講和会議で今後の戦争再発防止のための国際連盟の創設が提唱された後、エチオピア帝国の摂政タファリ・マコネンは国際連盟本部を訪れ、エチオピアの国際連盟加盟のために国際連盟日本代表の杉村陽太郎と会談したことがエチオピアと日本の初の公的な接触となった。ヨーロッパ諸国からエチオピア国内の奴隷制と奴隷貿易が国際連盟加盟のための障碍だと看做されたため、タファリは国内の奴隷制廃止を決め、1923年にエチオピアの国際連盟加盟が認められた。タファリはヨーロッパからの帰国の際に帰路のエジプトのポートサイドにて駐ポートサイド日本領事館副領事、黒木時次郎と会見し、黒木はそのまま1924年にエチオピアの首都アディスアベバを訪問、東京の外務省本省に日本とエチオピアの経済関係樹立の必要性を報告した後、1926年に再びエチオピアを訪問している。 1927年6月に大日本帝国外務省は駐ルーマニア公使、武者小路公共をエチオピアに派遣し、摂政タファリとの間で「日本・エチオピア通商友好条約」を調印した。なお、この条約はエチオピアの公用語アムハラ語で書かれていたため日本側で詳解できず、内容を確かめもせず調印した武者小路の責任が問われ、正式な公布までに5年かかった。 1927年9月には、大山卯次郎(1870-1939、第6代サンフランシスコ総領事)を団長とする専門家らによる東アフリカ経済事情調査隊が外務省より派遣され、翌年報告書が刊行された。 1930年4月にエチオピアの女帝ザウディトゥが病死し、摂政にして皇太子であったタファリが皇帝ハイレ・セラシエ1世に即位した後、1930年11月2日の戴冠式に際し、ヨーロッパ諸国が代表を派遣したのと同様に、大日本帝国も駐トルコ共和国大使吉田伊三郎を派遣した。 皇帝即位の翌1931年7月にハイレ・セラシエ1世はエチオピア初の成文憲法、「エチオピア1931年憲法」を大日本帝国憲法を範にして制定している。エチオピアでは、日露戦争での日本の勝利以降、同じ長い皇帝統治の歴史を持ちながら近代化に成功した日本に対する関心が高まっていた。また、同1931年9月にハイレ・セラシエ1世は外務大臣で同国最高の爵位ブラッテンゲタ(日本の公爵にあたる)を有するヘルイ・ウォルデ・セラシエを団長にした使節団を日本に派遣し、一行は11月に来日した。日本政府はシンガポール、サイゴン、香港、上海と寄港地ごとに現地領事官を船に差し向けて一行を歓迎し、日本国内でも連日新聞報道がなされ、神戸港到着時には市民千人が出迎え、東京でも両国旗を持った人で沿道が埋め尽くされた。一行は天皇に謁見し、日光、箱根観光ののち、名古屋から別府まで各地を視察し、12月24日に離日した。 これをきっかけに同年12月、原藤右門ら両国間の貿易を望む日本人4人が綿布、陶器、硝子、雑貨、薬品、ビールなどの商品見本を携えてエチオピアへ出航した。1932年の夏には、庄子勇之助ら長崎の商工会議所経済調査団がエチオピアに行き、首都アジスアべパで日本商品見本市を開き市場調査を行った。庄子は帰国後、星製薬社長星一の要請をうけ、アフリカでの薬草栽培の計画をもって、1935年に再度エチオピアに向かい、皇帝に謁見するなど、現地の新聞紙上を賑わした。 ヘルイ使節団帰国後の翌1932年に大阪に初代エチオピア名誉領事として安住伊三郎が任命された。安住は、大阪の安住大薬房の代表であり、大阪アフリカ輸出組合理事長を務めていた。翌1933年に湯川忠三郎(内外物産社長、大阪商工議所常議員)が名誉領事を引き継いでいる。両国貿易は活発化し、エチオピアの対日輸出品の9割は皮革とコーヒー、また輸入品の5割は綿花製品で、同1933年にエチオピアに於ける日本製品(主に綿製品)の市場占有率は70%に達した。同年、ヘルイ外務大臣はイタリアの新聞に答えて、エチオピアは日本に綿花の耕作地などの土地貸与や、日本の商工業施設の設置を許可するつもりであることを示唆した。こうした日本のエチオピアへの進出により、従来エチオピアに対して経済的に多大の利害関係をもつ伊仏英はこの新事態に対して非常に神経をたかぶらせた。 また、ヘルイ使節団に随行した皇室の縁戚者アラヤ・アババが日本人の華族との結婚を求めたため、アババと千葉県の黒田広志子爵(黒田和志長男)の次女黒田雅子との縁談の話が持ち上がったものの、1934年にヨーロッパの「某国」(1934年4月の『東京日日新聞』の夕刊の表現)の干渉によって破談となっている。時事新報のパリ特派員は、エチオピアの王子と日本女性との縁談は、エチオピア利権を狙うイタリアを刺激し、ローマ政府はエチオピアを威嚇して結婚解消を迫ったと報じた。当時ポルトガル初代日本公使としてリスポンにいた笠間杲雄は、イタリアがこの婚約の報を笠間よりも先に掴んでおり、ムッソリーニが断固反対していると告げられたという。なお、イタリアはその2年後の1936年にエチオピアを植民地とした。 ヘルイは帰国後、アムハラ語で «ማኅደረ ብርሃን ሀገረ ጃፓን» (Mahdara Berhan Hagara Japan) と題された日本滞在経験を基にした日本についての紀行書を刊行し、1934年に同書は『大日本』の書題で日本語訳刊行されている他、日本でも伊藤久男歌唱の『エチオピアの唄』と題されたレコードが日本コロムビアから同1934年に発売されるなど、この時期はエチオピア、日本の両国間で相互に関心が高まった時期であった。山本七平によると、この頃小学生の間でも「万世一系は日本だけでなくエチオピアもそうらしい」ということが噂になっていたという。
※この「第一次世界大戦以後」の解説は、「日本とエチオピアの関係」の解説の一部です。
「第一次世界大戦以後」を含む「日本とエチオピアの関係」の記事については、「日本とエチオピアの関係」の概要を参照ください。
- 第一次世界大戦以後のページへのリンク