サロンへの反抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 23:45 UTC 版)
第二帝政期、皇帝ナポレオン3世は独自の芸術政策を進めてアカデミーと対立する。1863年には例年になく厳しい審査に、落選させられた作家たちの不満が高まると、皇帝は美術愛好者や大衆に判断を任せるため、落選作品を集めた展覧会を開くことをアカデミーに命じた。この「落選展」で、マネの「草上の昼食」が日常生活の裸を描いたことでスキャンダルを起こし話題になった。1881年にフランス芸術家協会が設立され、サロンの運営を行うことになった(民営化)。 1874年にはのちに印象派と呼ばれるグループが独自の展覧会(第1回印象派展)を開いた。1884年には無審査・出品無制限のアンデパンダン展(Salon des Indépendants)、また、1890年には別に国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)主催のサロンも開催されるようになった。1903年のサロン・ドートンヌ展開催以降も多くのサロンが誕生するようになっていく。 印象派など、後に近代美術の祖となった芸術家たちはそれぞれの美学に立って、アカデミーの美術学校(エコール・デ・ボザール)が教えるような技巧優先の保守的な美術を「アカデミー的(アカデミック)」と呼んで攻撃した。アカデミーに属さずサロンにも出さない美術家が増え、彼らは独自のグループや結社を組み、個展や独自のグループ展を行うようになった。20世紀に入り第一次世界大戦以後、これら19世紀半ばの近代美術の画家達が評価されるようになると、逆に彼らを攻撃した芸術アカデミーのアカデミックな作風の大家たちは忘れられるようになった。 官展の流れを汲むサロン(ル・サロン、フランス芸術家協会展)は現在でも毎年行われているが、近年はこれまで使用していたグラン・パレ(1900年のパリ万博に際し建てられたガラスと鉄骨の大展覧会場)が老朽化し修理のため長い閉鎖に入ったため、他の大規模会場でサロンを行っていた。また、第二次世界大戦後は芸術の中心がパリからニューヨークに移動したこともあり、サロンが芸術界(アート・ワールド)に及ぼす影響も、かつてほど大きくなくなっている。2006年以降、グラン・パレでのサロン展再開に伴い、複数のサロンが合同で開催されるSalon EN CAPITALが開催されるようになり、今後のフランス・サロン界の巻き返しが期待されている。また、2008年にはフランス学士院総裁である、Prince Gabriel de BROGLIE (Chancelier de l'institut de France) により、LA SECTION DE GRAVURE DE L'ACADEMIE -DES BEAUX-ARTS EXPOSE ET RECOIT SES INVITESが、グーテンベルクから変容し続ける版画(印刷術、書誌学)をテーマに4人のアカデミシャンへのオマージュ展として、現代活躍する版画家を招き開催された。
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