サロンへの挑戦とは? わかりやすく解説

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サロンへの挑戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「サロンへの挑戦」の解説

50kmオート=ノルマンディー地域圏バス=ノルマンディー地域圏 イル=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ル・アーヴル サン=タドレス エトルタ オンフルール ルーアン ヴァランジュヴィル ディエップ セーヌ川 イギリス海峡 1865年サロン・ド・パリに、海景画オンフルールセーヌ河口』と『干潮エーヴ岬』を初出品し2点とも入選した新人モネ作品は、エドゥアール・マネ『オランピア』の真前に並ぶことになり、マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。これを機にモネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネーム署名をするようになったマネ『オランピア』スキャンダル巻き起こしたのに対しモネ作品批評家から好意的な評価得たモネはシャイイでマネ『草上の昼食』と同じテーマ作品制作始めていたが、サロンの後、シャイイに戻って1866年サロン出品することを目指し制作続行したモネ『草上の昼食』は、縦4.6メートル、横6メートルという大作であったが、結局サロンには出品されなかった。ギュスターヴ・クールベ批判されたからだとも言われる代わりに1866年サロン出品した緑衣の女(フランス語版)(カミーユ)』と『シャイイの道』は2点とも入選果たした。『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユ・ドンシュー(英語版)をモデルしたものであったこの頃ザカリー・アストリュク紹介で、マネ面識得た1866年サロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネ賞賛する記事書いた。これを読んだル・アーヴルの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って仕送りをしてくれるようになった。しかし、新聞批評家褒められからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユ別れれば再開する条件をつけて、仕送りをやめてしまった。このときすでにカミーユ第1子妊娠しており、モネにはカミーユ別れることは考えられなかった。この先10年間、モネは、苦し貧困時代を過ごすことになる。 1866年サロンが終わると、セーヴルオンフルール滞在しながら、大作『庭の中の女たち英語版)』に取りかかった。4人の女はいずれカミーユモデルしたもので、モネは、実際に庭の中でこれを制作した画面の上部に手が届かなかったため、庭に堀を掘って、その中にキャンバス入れて描いた。光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間仕事始め太陽隠れると作業中断したクールベモネアトリエ訪ねた際、モネ絵筆持ったままキャンバスの前でぼんやり立っているのを見て、なぜ描かないのかと言ったところ、モネは、あのせいだと言って指したというエピソード知られている。クールベは、「影をつけるところはともかく、背景今でも描けじゃないかと言ったが、モネは従わなかったという。このような手法こだわったため、制作には翌1867年でかかった。しかし、1867年サロンでこの労作落選してしまった。審査員からは、絵筆の跡が露わになっている点が、不注意未完成証拠であると受け止められたのであった当時画家にとって、サロン入選するかどうかは絵が売れかどうか決め決定的な要素であった。そのため、サロンへの落選モネにとって大きなショックで、ルノワールバジールシスレー同様に落選したことから、独自の展覧会開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった。『庭の中の女たち』は、バジールが2,500フラン大金購入してくれた。 1867年サン=タドレス(英語版)の叔母の家に滞在し、海と庭という2つテーマを結びつけた作品サン=タドレスのテラス』に取りかかった同年8月8日パリ残していたカミーユが、長男ジャンen:Jean Monet (son of Claude Monet))を出産した。しかし、父はモネカミーユの仲を認めなかった。モネは、ル・アーヴルカミーユ連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユ会おうとせず、金を出してもくれなかった。モネは、バジールに、「とてもいとおしく感じられる大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っている。 1868年には、ル・アーヴル滞在しながら制作続けた1868年サロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニー推薦入選した同年6月フェカンからバジール宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ動転して自殺未遂及んだことを伝えている。しかし、同年9月の手紙では、ル・アーヴル得たパトロン支援のおかげでカミーユジャンとの生活が落ち着いていることを知らせている。同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色描いている。 1869年サロンには、カミーユ長男ジャン描いた昼食』を提出した落選した家族ブージヴァル近くサン・ミッシェル移り住んだが、お金がなく、電気暖房がない生活であったモネ6月知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力あふれてます。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙書いている。そうした中、ルノワールパン運んでくれるな支援してくれた。モネルノワールとともにブージヴァル近く水浴場ラ・グルヌイエール」でキャンバス並べて制作したラ・グルヌイエールは、パリから鉄道30分の人気リゾート地であり、2人はこの地で、ラフな筆致絵具置いていく筆触分割という印象派の手法を確立していった。その中でも、ルノワール人物の形態重視したのに対しモネ人物抽象的な色斑描き、自然の中に埋没させている。 1869年頃、マネ中心として若手画家たち集うバティニョール地区英語版)のカフェ・ゲルボワに、モネ招かれるようになったカフェ・ゲルボワでは、マネエドガー・ドガ芸術論戦わせており、モネルノワール聞き役回っていた。そのほかゾラポール・セザンヌ写真家ナダールなども参加しており、彼ら芸術家グループは「バティニョール派」と呼ばれたモネはのちに「際限なく意見戦わすこうした雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめることができた」と振り返っている。 1870年サロンには、『昼食』や『ラ・グルヌイエール』を提出したが、ジャン=フランソワ・ミレードービニーといった審査員支持にもかかわらず再度落選してしまった。ドービニーモネ落選抗議して審査員辞任したモネは、以後しばらくサロンへの出品取りやめている。 1870年6月28日、ようやくカミーユ正式に結婚した。その夏、長男ジャン連れてノルマンディー地方リゾート地トルヴィル=シュル=メール新婚旅行行ったブーダンも妻を連れてトルヴィルに来てモネ一緒に制作した。このときのモネ作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具表面に、吹き上げられ海岸の砂や貝殻破片付着していることが分かっている。 『オンフルールセーヌ河口1865年油彩キャンバス、89.5 × 150.5 cmノートン・サイモン美術館同年サロン入選。 『干潮エーヴ岬』1865年油彩キャンバス、90.2 × 150.5 cmキンベル美術館テキサス州フォートワース)。同年サロン入選W52)。 『緑衣の女』1866年油彩キャンバス231 × 151 cmブレーメン美術館同年サロン入選W65)。 『草上の昼食』1865 - 66年左側断片)。油彩キャンバス418 × 150 cmオルセー美術館(W63a)。 『草上の昼食』1865 - 66年中央の断片)。油彩キャンバス248 × 217 cmオルセー美術館(W63b)。 『庭の中の女たち英語版)』1866年ごろ。油彩キャンバス255 × 205 cmオルセー美術館1867年サロン落選W67)。 『サン=ジェルマン=ロクセロワ教会1867年油彩キャンバス79 × 98 cm旧国立美術館(ベルリン)(W84)。 『サン=タドレスのテラス英語版)』1867年油彩キャンバス、98.1 × 129.9 cmメトロポリタン美術館(W95)。 『セーヌ河岸、ベンヌクール』1868年油彩キャンバス、81.5 × 100.7 cmシカゴ美術館(W110)。 『昼食1868 - 69年油彩キャンバス、231.5 × 151 cmシュテーデル美術館1870年サロン落選第1回印象派展出品(W132)。 『かささぎ英語版)』1868 - 69年油彩キャンバス89 × 130 cmオルセー美術館1869年サロン落選(W133)。 『ラ・グルヌイエール1869年油彩キャンバス、74.6 × 99.7 cmメトロポリタン美術館(W134)。 『トルヴィルの浜辺1870年油彩キャンバス38 × 46.5 cmナショナル・ギャラリー(ロンドン)(W158)。 『郊外列車1870年ごろ。油彩キャンバス50 × 65 cmオルセー美術館(W153)。

※この「サロンへの挑戦」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「サロンへの挑戦」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。


サロンへの挑戦(1863年-1870年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:28 UTC 版)

ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「サロンへの挑戦(1863年-1870年)」の解説

1863年サロン・ド・パリ初め応募したが、落選した1864年サロンに「グレール弟子」として『エスメラルダ』を応募して入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身サロン終了後塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派主題暗い絵であったという。 1864年磁器製造業者から、初め9歳の娘の肖像画依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作したベラスケスアングルコローエドガー・ドガ影響感じられる作品となっている。 1865年シスレーとともにフォンテーヌブロー森近くのマルロット(英語版)に滞在したルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い滞在中は世話になるようになったル・クールは、クレマンス・トレオという女性交際始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオ(英語版)と知り合い交際するようになったその後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年サロンには、シスレー父親描いた肖像画を含む2点入選したシスレーが、経済的に苦しルノワール助けるため、肖像画依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレール弟子」として出品している。 1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさん宿屋』を制作した1866年サロンには、『フォンテーヌブローのジュール・ル・クール』を応募したこの年サロン審査委員ジャン=バティスト・カミーユ・コローシャルル=フランソワ・ドービニー入ったため、ルノワール仲間画家多く入選した。この時期ルノワールは、クールベならってパレットナイフ使った作品から、アカデミックな構想作品まで、両極端様々な様式実験しており、フォンテーヌブローなどで制作したバジールは、1866年7月ヴィスコンティ通りフランス語版)にアトリエ移しルノワール共同使用したシスレーモネもここをよく訪れた南仏裕福な家庭育ったバジールは、ルノワールモネ仲間画家経済的に助け時にアトリエで生活を共にした。1867年バジールシスレーが同じあおさぎ静物を違う角度から描き、その制作中のバジールルノワール絵画残している。バジールも、ルノワール肖像描いている。マネルノワールによるバジール肖像賞賛し、ルノワールはこの絵をマネ贈った1867年サロンは、前年から一転して審査厳しくなり、ルノワール仲間画家多く落選したルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベ影響受けたモデル理想化しない肉付きの良すぎる描写不評であったとも考えられる。この作品のモデルもリーズ・トレオである。この年ルノワールは、『シャン=ゼリゼ眺め』、『ポンデザール芸術)』など、パリ都市風景画制作している。夏の間は、シャイイで制作しシスレー合流した戸外で『日傘リーズ』を制作したルノワールは、1868年バジールがバティニョール地区英語版)のラ・ペ通り1869年12月にラ・コンダミンヌ通りフランス語版)に改称)に借りたアトリエ一緒に移ったラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワ集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。1868年サロンには、『日傘リーズ』が入選した1869年サロンには、『夏・習作』が入選したこの年の夏には、ルーヴシエンヌ引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネ近くブージヴァル滞在していた。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパン持っていってやったりした。ルノワールは、モネとともにパリ郊外行楽地ラ・グルヌイエールキャンバス並べそれぞれ作品制作した2人は、この頃機にパレット上で絵具混ぜず絵具小さな筆触画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派誕生告げ出来事と言われる1870年サロンには、リーズモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した女性ポーズ古代ギリシャアフロディテ似ているが、クールベ写実主義影響指摘される。もう1点入選したアルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェ女に扮しパリの女を描いたものであったこれまでバティニョール派への評価避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイ(英語版)も、『ラルティスト』誌にモネルノワール擁護する評論発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワ描いたのようなアルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。 『ロメーヌ・ラコー嬢』1864年油彩キャンバス、81.3 × 65 cmクリーヴランド美術館。 『アントニーおばさん宿屋1866年油彩キャンバス194 × 131 cmスウェーデン国立美術館ストックホルム)。 『バジール肖像1867年油彩キャンバス105 × 73.5 cmオルセー美術館第2回印象派出品。 『狩りをするディアナ1867年油彩キャンバス、199.5 × 129.5 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。1867年サロン落選。 『日傘リーズ1867年油彩キャンバス184 × 115 cmフォルクヴァンク美術館エッセン)。1868年サロン入選。 『ポンデザール芸術)』1867-68年。油彩キャンバス、60.9 × 100.3 cmノートン・サイモン美術館。 『夏・習作英語版)』1868年油彩キャンバス85 × 59 cm旧国立美術館 (ベルリン)1869年サロン入選。 『婚約者たち (シスレー夫妻)(フランス語版)』1868年油彩キャンバス105 × 75 cmヴァルラフ・リヒャルツ美術館ケルン)。 『少年1868年油彩キャンバス123 × 66 cmオルセー美術館。 『ラ・グルヌイエール1869年油彩キャンバス、66.5 × 81 cmスウェーデン国立美術館。 『浴女とグリフォンテリア』1870年油彩キャンバス184 × 115 cmサンパウロ美術館1870年サロン入選。 『アルジェの女(オダリスク)』1870年油彩キャンバス、69.2 × 122.6 cmナショナル・ギャラリー(ロンドン)1870年サロン入選

※この「サロンへの挑戦(1863年-1870年)」の解説は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の解説の一部です。
「サロンへの挑戦(1863年-1870年)」を含む「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事については、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の概要を参照ください。

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