サロンへの挑戦
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50km 旧オート=ノルマンディー地域圏 旧バス=ノルマンディー地域圏 イル=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ル・アーヴル サン=タドレス エトルタ オンフルール ルーアン ヴァランジュヴィル ディエップ セーヌ川 イギリス海峡 1865年のサロン・ド・パリに、海景画『オンフルールのセーヌ河口』と『干潮のエーヴ岬』を初出品し、2点とも入選した。新人モネの作品は、エドゥアール・マネの『オランピア』の真前に並ぶことになり、マネは、自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨したという。これを機に、モネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになった。マネの『オランピア』がスキャンダルを巻き起こしたのに対し、モネの作品は批評家から好意的な評価を得た。 モネはシャイイでマネの『草上の昼食』と同じテーマの作品の制作を始めていたが、サロンの後、シャイイに戻って、1866年のサロンに出品することを目指して制作を続行した。モネの『草上の昼食』は、縦4.6メートル、横6メートルという大作であったが、結局、サロンには出品されなかった。ギュスターヴ・クールベに批判されたからだとも言われる。代わりに1866年のサロンに出品した『緑衣の女(フランス語版)(カミーユ)』と『シャイイの道』は2点とも入選を果たした。『緑衣の女』は、当時知り合ったばかりの恋人カミーユ・ドンシュー(英語版)をモデルにしたものであった。この頃、ザカリー・アストリュクの紹介で、マネと面識を得た。 1866年のサロンで、エミール・ゾラが『レヴェヌマン』紙にモネを賞賛する記事を書いた。これを読んだル・アーヴルの父は、息子の絵がすぐに売れるようになるものと思って、仕送りをしてくれるようになった。しかし、新聞で批評家に褒められたからといって絵が売れるわけではなく、父は同年末、カミーユと別れれば再開すると条件をつけて、仕送りをやめてしまった。このときすでにカミーユは第1子を妊娠しており、モネにはカミーユと別れることは考えられなかった。この先10年間、モネは、苦しい貧困の時代を過ごすことになる。 1866年のサロンが終わると、セーヴルやオンフルールに滞在しながら、大作『庭の中の女たち(英語版)』に取りかかった。4人の女はいずれもカミーユをモデルとしたもので、モネは、実際に庭の中でこれを制作した。画面の上部に手が届かなかったため、庭に堀を掘って、その中にキャンバスを入れて描いた。光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に仕事を始め、太陽が雲で隠れると作業を中断した。クールベがモネのアトリエを訪ねた際、モネが絵筆を持ったままキャンバスの前でぼんやり立っているのを見て、なぜ描かないのかと言ったところ、モネは、あのせいだと言って雲を指したというエピソードが知られている。クールベは、「影をつけるところはともかく、背景は今でも描けるじゃないか」と言ったが、モネは従わなかったという。このような手法にこだわったため、制作には翌1867年までかかった。しかし、1867年のサロンでこの労作は落選してしまった。審査員からは、絵筆の跡が露わになっている点が、不注意と未完成の証拠であると受け止められたのであった。当時の画家にとって、サロンに入選するかどうかは絵が売れるかどうかを決める決定的な要素であった。そのため、サロンへの落選はモネにとって大きなショックで、ルノワール、バジール、シスレーも同様に落選したことから、独自の展覧会を開催しようという案が出たが、資金不足のため立ち消えとなった。『庭の中の女たち』は、バジールが2,500フランの大金で購入してくれた。 1867年、サン=タドレス(英語版)の叔母の家に滞在し、海と庭という2つのテーマを結びつけた作品『サン=タドレスのテラス』に取りかかった。同年8月8日、パリに残していたカミーユが、長男ジャン(en:Jean Monet (son of Claude Monet))を出産した。しかし、父はモネとカミーユの仲を認めなかった。モネは、ル・アーヴルにカミーユを連れて行き父を説得しようとしたが、父はカミーユに会おうとせず、金を出してもくれなかった。モネは、バジールに、「とてもいとおしく感じられる、大きくてかわいい男の子だ。でも、その母親が食べるものが何もないことを考えると、苦しくてたまらない」と書き送っている。 1868年には、ル・アーヴルに滞在しながら制作を続けた。1868年のサロンでは、海景画1点だけが、審査員であったシャルル=フランソワ・ドービニーの推薦で入選した。同年6月、フェカンからバジールに宛てた手紙で、依然として経済的苦境にあることを述べ、動転して自殺未遂に及んだことを伝えている。しかし、同年9月の手紙では、ル・アーヴルで得たパトロンの支援のおかげで、カミーユとジャンとの生活が落ち着いていることを知らせている。同年12月には、エトルタで『かささぎ』などの雪景色を描いている。 1869年のサロンには、カミーユと長男ジャンを描いた『昼食』を提出したが落選した。家族とブージヴァル近くのサン・ミッシェルに移り住んだが、お金がなく、電気や暖房がない生活であった。モネは6月、知人に「僕の精神はとてもいい状態で、仕事をする気力にあふれています。でも、あの致命的な落選によって、生活のあてがまったくありません」と、悲痛な手紙を書いている。そうした中、ルノワールがパンを運んでくれるなど支援してくれた。モネはルノワールとともに、ブージヴァル近くの水浴場「ラ・グルヌイエール」でキャンバスを並べて制作した。ラ・グルヌイエールは、パリから鉄道で30分の人気のリゾート地であり、2人はこの地で、ラフな筆致で絵具を置いていく筆触分割という印象派の手法を確立していった。その中でも、ルノワールが人物の形態を重視したのに対し、モネは人物を抽象的な色斑で描き、自然の中に埋没させている。 1869年頃、マネを中心として若手画家たちが集うバティニョール地区(英語版)のカフェ・ゲルボワに、モネも招かれるようになった。カフェ・ゲルボワでは、マネとエドガー・ドガが芸術論を戦わせており、モネやルノワールは聞き役に回っていた。そのほか、ゾラやポール・セザンヌ、写真家ナダールなども参加しており、彼ら芸術家のグループは「バティニョール派」と呼ばれた。モネはのちに「際限なく意見を戦わすこうした『雑談』ほど面白いものはなかった。そのおかげで、我々の感覚は磨かれ、何週間にもわたって熱中することができ、そうして意見をきちんとまとめることができた」と振り返っている。 1870年のサロンには、『昼食』や『ラ・グルヌイエール』を提出したが、ジャン=フランソワ・ミレーやドービニーといった審査員の支持にもかかわらず、再度落選してしまった。ドービニーはモネの落選に抗議して審査員を辞任した。モネは、以後しばらくサロンへの出品を取りやめている。 1870年6月28日、ようやくカミーユと正式に結婚した。その夏、長男ジャンを連れてノルマンディー地方のリゾート地トルヴィル=シュル=メールに新婚旅行に行った。ブーダンも妻を連れてトルヴィルに来て、モネと一緒に制作した。このときのモネの作品『トルヴィルの浜辺』には、カミーユと、ブーダンの妻が描かれている。強風の中制作したため、絵具の表面に、吹き上げられた海岸の砂や貝殻の破片が付着していることが分かっている。 『オンフルールのセーヌ河口』1865年。油彩、キャンバス、89.5 × 150.5 cm。ノートン・サイモン美術館。同年サロン入選。 『干潮のエーヴ岬』1865年。油彩、キャンバス、90.2 × 150.5 cm。キンベル美術館(テキサス州フォートワース)。同年サロン入選(W52)。 『緑衣の女』1866年。油彩、キャンバス、231 × 151 cm。ブレーメン美術館。同年サロン入選(W65)。 『草上の昼食』1865 - 66年(左側の断片)。油彩、キャンバス、418 × 150 cm。オルセー美術館(W63a)。 『草上の昼食』1865 - 66年(中央の断片)。油彩、キャンバス、248 × 217 cm。オルセー美術館(W63b)。 『庭の中の女たち(英語版)』1866年ごろ。油彩、キャンバス、255 × 205 cm。オルセー美術館。1867年サロン落選(W67)。 『サン=ジェルマン=ロクセロワ教会』1867年。油彩、キャンバス、79 × 98 cm。旧国立美術館(ベルリン)(W84)。 『サン=タドレスのテラス(英語版)』1867年。油彩、キャンバス、98.1 × 129.9 cm。メトロポリタン美術館(W95)。 『セーヌ河岸、ベンヌクール』1868年。油彩、キャンバス、81.5 × 100.7 cm。シカゴ美術館(W110)。 『昼食』1868 - 69年。油彩、キャンバス、231.5 × 151 cm。シュテーデル美術館。1870年サロン落選、第1回印象派展出品(W132)。 『かささぎ(英語版)』1868 - 69年。油彩、キャンバス、89 × 130 cm。オルセー美術館。1869年サロン落選(W133)。 『ラ・グルヌイエール』1869年。油彩、キャンバス、74.6 × 99.7 cm。メトロポリタン美術館(W134)。 『トルヴィルの浜辺』1870年。油彩、キャンバス、38 × 46.5 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)(W158)。 『郊外の列車』1870年ごろ。油彩、キャンバス、50 × 65 cm。オルセー美術館(W153)。
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サロンへの挑戦(1863年-1870年)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「サロンへの挑戦(1863年-1870年)」の解説
1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。 1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。 1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロット(英語版)に滞在した。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオ(英語版)と知り合い、交際するようになった。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している。 1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した。 1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した。この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した。 バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通り(フランス語版)にアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った。 1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、ルノワールや仲間の画家の多くは落選した。ルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベの影響を受けた、モデルを理想化しない肉付きの良すぎる描写が不評であったとも考えられる。この作品のモデルもリーズ・トレオである。この年、ルノワールは、『シャン=ゼリゼの眺め』、『ポンデザール(芸術橋)』など、パリの都市風景画を制作している。夏の間は、シャイイで制作し、シスレーも合流した。戸外で『日傘のリーズ』を制作した。 ルノワールは、1868年、バジールがバティニョール地区(英語版)のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通り(フランス語版)に改称)に借りたアトリエに一緒に移った。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。1868年のサロンには、『日傘のリーズ』が入選した。 1869年のサロンには、『夏・習作』が入選した。この年の夏には、ルーヴシエンヌに引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネも近くのブージヴァルに滞在していた。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパンを持っていってやったりした。ルノワールは、モネとともに、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、それぞれ作品を制作した。2人は、この頃を機に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派の誕生を告げる出来事と言われる。 1870年のサロンには、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャのアフロディテに似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される。もう1点入選した『アルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイ(英語版)も、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。 『ロメーヌ・ラコー嬢』1864年。油彩、キャンバス、81.3 × 65 cm。クリーヴランド美術館。 『アントニーおばさんの宿屋』1866年。油彩、キャンバス、194 × 131 cm。スウェーデン国立美術館(ストックホルム)。 『バジールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、105 × 73.5 cm。オルセー美術館。第2回印象派展出品。 『狩りをするディアナ』1867年。油彩、キャンバス、199.5 × 129.5 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。1867年サロン落選。 『日傘のリーズ』1867年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。フォルクヴァンク美術館(エッセン)。1868年サロン入選。 『ポンデザール(芸術橋)』1867-68年。油彩、キャンバス、60.9 × 100.3 cm。ノートン・サイモン美術館。 『夏・習作(英語版)』1868年。油彩、キャンバス、85 × 59 cm。旧国立美術館 (ベルリン)。1869年サロン入選。 『婚約者たち (シスレー夫妻)(フランス語版)』1868年。油彩、キャンバス、105 × 75 cm。ヴァルラフ・リヒャルツ美術館(ケルン)。 『猫と少年』1868年。油彩、キャンバス、123 × 66 cm。オルセー美術館。 『ラ・グルヌイエール』1869年。油彩、キャンバス、66.5 × 81 cm。スウェーデン国立美術館。 『浴女とグリフォンテリア』1870年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。サンパウロ美術館。1870年サロン入選。 『アルジェの女(オダリスク)』1870年。油彩、キャンバス、69.2 × 122.6 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。1870年サロン入選。
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