サロンへの復帰(1878年-1880年)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「サロンへの復帰(1878年-1880年)」の解説
ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、1878年のサロンに応募した。「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選した。このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになるが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきた。当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題であった。 1878年5月、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。 1879年のサロンには、2点が入選した。そのうち女優ジャンヌ・サマリー(英語版)の立像は注目されなかったが、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられる。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦であった。一時的に戸外制作もやめていた。ピサロは、支援者ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)への手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いている。シャルパンティエ家でこの絵を見たマルセル・プルーストもその優美さを称賛した。その頃から、肖像画の注文が増えてきた。 その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌやアルマン・ギヨマンも同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた。 その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「ラ・ヴィ・モデルヌ(ドイツ語版)」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた。 1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールがディエップ近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性アリーヌ・シャリゴ(スペイン語版)と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた 1880年のサロンは、芸術アカデミーが主催する最後のサロンであった。ルノワールは、2点が入選した。この年には、ルノワールだけでなくモネも、印象派展(第5回展)を離脱してサロンに応募した。ルノワールは、サロンの門戸を広げる改革案を公表したが、注目されるには至らなかった。 『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』1878年。油彩、キャンバス、153.7 × 190.2 cm。メトロポリタン美術館。1879年サロン入選。 『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』1880年。油彩、キャンバス、65 × 54 cm。ビュールレ・コレクション。
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