サロンの保守傾向と「落選者展」
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「第1回印象派展」の記事における「サロンの保守傾向と「落選者展」」の解説
第1回印象派展以前は、フランス美術アカデミーの主導するサロンが、一般市民に作品を公開する画家たちの数少ない場であった。当時、構成や形式を重んじる理論化された古典主義がフランス美術アカデミーの掲げる美の象徴であった。そのため、サロンに出品する画家らは、古典主義の規範に則ることを余儀なくされた。これとは対照的に、のちに「印象派」と呼ばれる画家たちが出品した作品は、このような美術アカデミーの規範とは相容れず、しばしば落選の憂き目に遭った。 ことにナポレオン3世がフランス皇帝となって政治体制の強化に乗り出すと、それに並行してアカデミーも保守性を強めた。1863年のサロンでは、それまで美術アカデミーが管轄していたエコール・デ・ボザールの校長を帝室美術大臣が任命することとなるなど、美術教育の権限を芸術アカデミーから美術行政に移す改革が断行されたこともあって、美術アカデミーによる審査はいっそう厳格になり、応募作品5000点のうち5分の3もの作品が落選した。ナポレオン3世は、落選者たちが不満の声をあげていることを知ると、苦情の正当性を民衆に委ねるべくサロンの開催に伴い落選者展を組織させた。この落選者展によって、美術アカデミーの原則的な審査方法によって落選した作品は一般市民の目に映る機会を得た。上述の『草上の昼食』(マネ)のほか、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『白いシンフォニー』も厳しい批判を浴びた。 1863年に美術総監に任命されたのがエミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵であった。美術アカデミーやサロンはこの美術総監の指揮下に入り、彼の意向によりフランスの美術界はいっそう保守性を増した。1867年、ニューウェルケルク伯爵は美術界の権威を損なうとして、「落選者展」の開催を拒否した。 落選者展はスキャンダルを生んだ一方で、結果としてサロン批判を高める動きにつながり、1860年代半ばから、描く対象の輪郭や固有の色よりも、周囲の光や空気の微妙な変化を正確にとらえようとする新たな芸術運動がしだいに広がっていった 。
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