サロンとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 06:47 UTC 版)
蘭渓は、自ら京に上って当時の文化人と交流を持つこともあり、また、原という交通上の立地を生かして、通行する文化人を逗留させて文化を摂取することもあった。蘭渓が14歳のころ、京からやってきた斯経という僧侶が植松家に逗留した。斯経は白隠禅師の下で修業し、植松家もまた白隠禅師とはもとより親交が深かった。やがて斯経が京へ戻ると、蘭渓は京へ頻繁に上るようになる。そして蘭渓は、斯経に近しい高名な文化人とコネクションを持つようになった。まずは斯経と親しく、かつ白隠禅師の門下でもあった池大雅に接近、大雅亡き後は続いて円山応挙に接近、嗣子を弟子入りさせて最終的に応令の画号を承るまでに至った。蘭渓はその後も、駒井源琦、長澤芦雪、呉華、岸駒、そして伊藤若冲、儒学者の皆川淇園とも交流があったこともわかっている。蘭渓は様々な書画を発注し、原へ送らせた。蘭渓は同じくして、趣味が高じて庭園を作ることにも凝っており、上方からも江戸からも珍しい花卉を仕入れて植物園を作った。そして、皆川淇園へ実際に見て中華風の命名をするよう依頼したが、実現しなかった。その後、同じく儒学者の海保青陵が原に泊まった際、蘭渓は彼を引き止めてもてなし、園を案内した。そして青陵により、この植物園は「帯笑園」と命名された。出典は玄宗皇帝と楊貴妃を詠った李白の詩、「清衡調詞其三」による。 原宿本陣の隣に帯笑園があったことから、参勤交代で投宿した大名はこぞって帯笑園を訪れており、芳名帳にその名が残っている。特に彦根藩の藩主は、歴代がこぞって何度となく訪問している。井伊直弼は三回訪問したこと、硯箱を贈ったことがわかっている。1798年以前の記録は火災により焼失したが、それ以降は大名や公家やオランダ商館長、さらに時代が下ると皇室や皇族も記録されている。植松家は家訓により、植物や鉢物を売ることを禁じている。もしも大名や公家がそれらを希望した場合は、献上する代わりに書や絵や絵画を所望した。これにより植松家には様々な文化・情報が収集・交換され、一種の文化サロンのようになっていた。 来訪記録のある著名人 西本願寺御門主、木下肥後守、仙石越前守、千種前中納言卿、千種中納言卿、松平信濃守、和歌山藩第10代藩主徳川治宝、紀伊大納言殿、松平土佐守、井伊直弼、池田信濃守政詮オランダ領事ポルスブルック 皇族の訪問 1894年(明治27年)2月18日、皇太子が訪問し、荒馬の松1根を手植した。 1897年(明治30年)1月3日、皇太子は馬に乗って訪問。フランスから取り寄せた松の育て方について訪ねた
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