ラ・コンダミンヌ通りのアトリエとは? わかりやすく解説

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ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 00:43 UTC 版)

フレデリック・バジール」の記事における「ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ」の解説

バジールは、1868年1月ルノワールとともに、バティニョール地区英語版)のラ・ペ通り1869年12月にラ・コンダミンヌ通りフランス語版)に改称)に移ったヴィスコンティ通りのアトリエ手狭だったため、広いアトリエ求めて移ったもので、バジールは、父親に、家賃余計にかかることを報告している。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワ集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエには、モネルノワールマネのほか、エミール・ゾラピサロセザンヌギュスターヴ・クールベ訪れた1868年サロンには、『家族集い』と『花瓶』の2作品入選したこの年バジールは、アカデミックな伝統強く結び付いた男性裸体画に、現代的なアプローチ取り組もうとし、『網を持つ漁師』を制作した。しかし、モチーフとしては奇妙で不自然なものとなってしまった。 1869年サロンには、『眺め』が入選したが、『網を持つ漁師』は落選したバジールは、両親に、次のように書いている。 悪い知らせあります展覧会応募した作品落選したのです。しかし、あまり深刻に悩まないください落胆すべきことは何もなく、むしろ反対に今年サロン優秀だった作品運命を共にしたのです。……自分たちが望むだけの作品展示できるアトリエ毎年借りることを、私たち決めました。……私たち仲間ことを起こすのは来年です。私としては楽しみなことになるでしょうこのようにバジールは、サロンから独立して画家たち自身主催する展覧会構想継続している。『眺め』の入選には、ジャン=レオン・ジェローム強く反対したが、同じく官立美術学校アトリエ教授で、モンペリエ出身アレクサンドル・カバネル賛成しバジールは、官展派のカバネル擁護知って驚いたという。 1870年バジールは、ラ・コンダミンヌ通りのアトリエを作品描いている。中央パレット持っているのがバジールであるが、バジール父親書いた手紙によると、これを描き込んだのはマネだという。帽子被ってイーゼル見ているのはマネ、右でピアノ弾いているのはバジール親友エドモン・メートル(フランス語版)である。絵の左側の3人は特定難しいが、おそらくモネルノワールザカリー・アストリュクではないか思われる。画中にはサロン落選した自分友人作品描かれており、アカデミーへの批判込められている。 『バジールアトリエ』の画中にはサロン向けて準備中だった『身繕い化粧)』が描かれているが、この後バジールは、急遽3人目女性描き加え3月サロン提出期限間に合わせた。しかし、1870年サロンには、2点応募したうち、『夏の情景』は入選したが、『身繕い』は落選した。 『夏の情景』は、『網を持った漁師』で試みた現代男性裸体画を、より説得的提示したものといえる。水着若者たち中には聖セバスティアヌス河の神など、それと分かる伝統的なポーズ取っている者がいるが、こうしたアカデミックな題材現代風俗画取り込もうとしている。サロン展示された『夏の情景』を見て批評家ザカリー・アストリュクは、「彼のキャンバスには陽光あふれている」と評した。この絵の構図パリアトリエ描き始められもののようだが、南仏旅した時に仕上げたようである。バジール自身も、作品評価満足し両親に、「私は、自分作品の展示についてとても嬉しく思ってます。私の絵は、大変良い場所にかけられています。皆が私の作品見て語ってます。……少なくとも、私は時勢遅れていないわけで、今後どのような作品展示しても、注目されることになるでしょう。」と書いている。 ところで、バジールは、1870年1月、自ら『身繕い』の制作追われる傍ら友人アンリ・ファンタン=ラトゥール制作する『バティニョールのアトリエ』のモデル務めた2人は、日本美術への魅力意気投合しバジールが『身繕い』に日本着物を持つ3人目女性描き加えた一方ファンタンラトゥールは、日本から強い影響受けた作陶家ローラン・ブヴィエの壺を描き入れた。さらに、バジールは、同年4月住み慣れたラ・コンダミンヌ通りのアトリエを去りファンタンラトゥールアトリエ構えボザール通り移った。そして、バジールは、『芍薬黒人女性』にブヴィエの壺を描いており、ファンタンラトゥールとの友情明らかにしている。『芍薬黒人女性』は、バジール出征前にパリ描いた最後作品となった。 『網を持つ漁師1868年油彩キャンバス134 × 83 cm財団チューリッヒ)。1869年サロン落選。 『眺め1868年油彩キャンバス、137.5 × 85 cmファーブル美術館モンペリエ)。1869年サロン入選。 『夏の情景フランス語版)』1869年油彩キャンバス、160 × 160.7 cmフォッグ美術館マサチューセッツ州ケンブリッジハーバード大学)。1870年サロン入選。 『エドモン・メートルの肖像1869年油彩キャンバス83 × 64.2 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。 『バジールアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年油彩キャンバス98 × 128 cmオルセー美術館。 『身繕い1870年油彩キャンバス130 × 128 cmファーブル美術館モンペリエ)。1870年サロン落選。 『芍薬黒人女性1870年油彩キャンバス、60.3 × 75.2 cmファーブル美術館。 『レ川のほとり風景1870年油彩キャンバス、137.2 × 200.7 cmミネアポリス美術館

※この「ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ」の解説は、「フレデリック・バジール」の解説の一部です。
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