ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ
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「フレデリック・バジール」の記事における「ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ」の解説
バジールは、1868年1月、ルノワールとともに、バティニョール地区(英語版)のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通り(フランス語版)に改称)に移った。ヴィスコンティ通りのアトリエが手狭だったため、広いアトリエを求めて移ったもので、バジールは、父親に、家賃が余計にかかることを報告している。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエには、モネ、ルノワール、マネのほか、エミール・ゾラ、ピサロ、セザンヌ、ギュスターヴ・クールベも訪れた。 1868年のサロンには、『家族の集い』と『花瓶』の2作品が入選した。 この年、バジールは、アカデミックな伝統と強く結び付いた男性裸体画に、現代的なアプローチで取り組もうとし、『網を持つ漁師』を制作した。しかし、モチーフとしては奇妙で不自然なものとなってしまった。 1869年のサロンには、『村の眺め』が入選したが、『網を持つ漁師』は落選した。バジールは、両親に、次のように書いている。 悪い知らせがあります。展覧会に応募した作品が落選したのです。しかし、あまり深刻に悩まないでください。落胆すべきことは何もなく、むしろ反対に、今年のサロンで優秀だった作品と運命を共にしたのです。……自分たちが望むだけの作品を展示できるアトリエを毎年借りることを、私たちは決めました。……私たちの仲間がことを起こすのは来年です。私としては楽しみなことになるでしょう。 このように、バジールは、サロンから独立して画家たち自身が主催する展覧会の構想を継続している。『村の眺め』の入選には、ジャン=レオン・ジェロームが強く反対したが、同じく官立美術学校のアトリエ教授で、モンペリエ出身のアレクサンドル・カバネルは賛成し、バジールは、官展派のカバネルの擁護を知って驚いたという。 1870年、バジールは、ラ・コンダミンヌ通りのアトリエを作品に描いている。中央でパレットを持っているのがバジールであるが、バジールが父親に書いた手紙によると、これを描き込んだのはマネだという。帽子を被ってイーゼルを見ているのはマネ、右でピアノを弾いているのはバジールの親友エドモン・メートル(フランス語版)である。絵の左側の3人は特定が難しいが、おそらくモネ、ルノワール、ザカリー・アストリュクではないかと思われる。画中には、サロンに落選した自分や友人の作品が描かれており、アカデミーへの批判が込められている。 『バジールのアトリエ』の画中には、サロンに向けて準備中だった『身繕い(化粧)』が描かれているが、この後、バジールは、急遽3人目の女性を描き加え、3月のサロン提出期限に間に合わせた。しかし、1870年のサロンには、2点応募したうち、『夏の情景』は入選したが、『身繕い』は落選した。 『夏の情景』は、『網を持った漁師』で試みた現代の男性裸体画を、より説得的に提示したものといえる。水着の若者たちの中には、聖セバスティアヌスや河の神など、それと分かる伝統的なポーズを取っている者がいるが、こうしたアカデミックな題材を現代の風俗画に取り込もうとしている。サロンで展示された『夏の情景』を見て、批評家ザカリー・アストリュクは、「彼のキャンバスには陽光があふれている」と評した。この絵の構図はパリのアトリエで描き始められたもののようだが、南仏に旅した時に仕上げたようである。バジール自身も、作品の評価に満足し、両親に、「私は、自分の作品の展示についてとても嬉しく思っています。私の絵は、大変良い場所にかけられています。皆が私の作品を見て、語っています。……少なくとも、私は時勢に遅れていないわけで、今後どのような作品を展示しても、注目されることになるでしょう。」と書いている。 ところで、バジールは、1870年1月、自ら『身繕い』の制作に追われる傍ら、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールの制作する『バティニョールのアトリエ』のモデルも務めた。2人は、日本美術への魅力に意気投合し、バジールが『身繕い』に日本の着物を持つ3人目の女性を描き加えた一方、ファンタン=ラトゥールは、日本から強い影響を受けた作陶家ローラン・ブヴィエの壺を描き入れた。さらに、バジールは、同年4月、住み慣れたラ・コンダミンヌ通りのアトリエを去り、ファンタン=ラトゥールがアトリエを構えるボザール通りに移った。そして、バジールは、『芍薬と黒人の女性』にブヴィエの壺を描いており、ファンタン=ラトゥールとの友情を明らかにしている。『芍薬と黒人の女性』は、バジールが出征前にパリで描いた最後の作品となった。 『網を持つ漁師』1868年。油彩、キャンバス、134 × 83 cm。財団蔵(チューリッヒ)。1869年サロン落選。 『村の眺め』1868年。油彩、キャンバス、137.5 × 85 cm。ファーブル美術館(モンペリエ)。1869年サロン入選。 『夏の情景(フランス語版)』1869年。油彩、キャンバス、160 × 160.7 cm。フォッグ美術館(マサチューセッツ州ケンブリッジ、ハーバード大学)。1870年サロン入選。 『エドモン・メートルの肖像』1869年。油彩、キャンバス、83 × 64.2 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『バジールのアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年。油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館。 『身繕い』1870年。油彩、キャンバス、130 × 128 cm。ファーブル美術館(モンペリエ)。1870年サロン落選。 『芍薬と黒人の女性』1870年。油彩、キャンバス、60.3 × 75.2 cm。ファーブル美術館。 『レ川のほとりの風景』1870年。油彩、キャンバス、137.2 × 200.7 cm。ミネアポリス美術館。
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