ヴィスコンティ通りのアトリエ
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「フレデリック・バジール」の記事における「ヴィスコンティ通りのアトリエ」の解説
バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通り(フランス語版)にアトリエを移し、ルノワールと共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。 1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、バジールや仲間の画家の多くは落選した。バジールは、この年の5月初め頃と思われる両親宛の手紙で、次のように書いている。 今年のサロンは、今まで見た中で最も凡庸なものです。万国博覧会には、20点に及ぶミレーとコローの美しいキャンバスがあります。もうすぐ、クールベとマネの個展があるでしょう。見に行くのを楽しみにしています。……最近の手紙の一つで、一部の若い人たちに独自の展覧会を開く計画があったことを書きました。各人ができるだけ努力して、合計2500フランを集めましたが、それでも十分ではありませんでした。結局、私たちが望んだ計画は断念せざるを得ませんでした。 これは、後の印象派グループ展(1874年以降)と同じような、サロンから独立したグループ展の開催を考えていた跡として注目される。 バジールの作品は、1867年頃から、イル・ド・フランスの風景画が少なくなり、友人や家族をモデルにした風俗画が多くなる。プロヴァンス地方を描いた風景画はあるが、アトリエで仕上げを施すようになり、同時期のルノワールと同様、アカデミックな画風への回帰が見られる。バジールは、1867年、モンペリエ近郊のメリックにある実家で、テラスに集まった家族をモデルに代表作『家族の集い』を制作した。南仏の強い光の下、強いコントラストで人物と背景が描かれている。モネの『庭の中の女たち(英語版)』と比較すると、個々の人物が肖像画として成立しており、カメラを見るようにこちらを見つめている点が画風の違いを示している。バジールは、何度も仕上げをし、サロンに出品後も、犬のモチーフを静物に修正するなど、変更を試みている。『庭の中の女たち』がサロンに拒絶されたのに対し、『家族の集い』はより受け入れられやすい作品であったといえる。人物の描き方はやや堅苦しく、未熟な点はあるが、戸外における人物群像構図という、当時の彼らの共通の課題に応えたものである。構成力と、光に対する感受性が優れており、印象派の世界を予告する作品となっていると評される。 バジールは、1867年のサロンで落選したモネの『庭の中の女たち』を、1868年1月、2500フラン(毎月50フランの分割払い)で購入し、彼を支援した。仲間の画家たちの中では裕福な家の出であったことから、バジールは、モネやルノワールを経済的に助けたが、父親からは、出費を心配して倹約を促す手紙が度々届いた。その後も、長男が生まれたモネは、バジールへの手紙で経済的苦境を繰り返し訴えている。バジールは、モネの長男ジャンの名付け親となった。 『ヴィスコンティ通りのアトリエ』1867年。油彩、キャンバス、64 × 49 cm。ヴァージニア美術館。 『あおさぎ』1867年。油彩、キャンバス、98 × 78 cm。ファーブル美術館(モンペリエ)。 『ルノワールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、61.2 × 50 cm。オルセー美術館。 『家族の集い』1867-68年。油彩、キャンバス、152 × 230 cm。オルセー美術館。1868年サロン入選。
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