第一次世界大戦・ロシア革命
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「反ユダヤ主義」の記事における「第一次世界大戦・ロシア革命」の解説
イギリスでは、第一次世界大戦中に反ユダヤ主義が盛り上がり、それに続くロシア革命でもさらに盛り上がった。 イギリス外交官セシル・スプリング=ライス(Cecil Spring Rice)は1914年11月の報告書で、アメリカでは大銀行家ジョン・モルガンの死以来、ウォーバーグ家のポール・ウォーバーグが連邦準備制度理事となるなどユダヤ人銀行家がはびこり、ユダヤ人は米国財務省や有力新聞を掌握していると報告し、銀行家ベルンハルト・デルンブルクやジェイコブ・シフ、ユダヤ系財閥クーン・ローブなどのユダヤ-ドイツ系銀行家を警戒すべきであると報告した。1917年にスプリング=ライスは、ウィルソン大統領の盟友だったシオニストのルイス・ブランダイスに対して、国際ユダヤ組織が各地で革命派を支援していると非難した。スプリング=ライスは1918年、ロシア革命もトルコ革命もユダヤ人の陰謀とみて、イギリスにいるドイツ系ユダヤ人への警戒を呼びかけた。 1915年5月7日にドイツ海軍潜水艦によりルシタニア号が沈没して乗客1,198名が死亡すると、イギリスではヴァレンタイン・チロルがこの戦争犯罪をドイツ系ユダヤ人のアルベルト・バリン個人の責任として、またドイツ出身のユダヤ人銀行家アーネスト・カッセルからイギリス国籍を剥奪する反ユダヤキャンペーンも行われ、暴徒が外国人商店を襲撃した。ユダヤ系新聞は、タイムズ紙はユダヤ人を敵国のドイツ人呼ばわりしていると批判した。また、外国籍住民はイギリス軍への入隊が許可されなかったが、『デイリー・メール』紙は「国の蓄えを食い荒らすロシアの黄色いユダヤ人」は軍務忌避していると批判し、ザ・クラリオン紙はプロイセン人とユダヤ人は不毛な土地の盗賊と非難した。1916年6月にロシアに向かうキッチナー卿を乗せた船艦が魚雷攻撃で沈没すると、リーオウ・マクシーは国際ユダヤ人がドイツに情報を提供したと論じた。 第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起きると、さらにイギリスの反ユダヤ主義が強まった。ヒレア・ベロックによれば、イギリスで明け透けの反ユダヤ主義が台頭したのはロシア革命を契機としており、ボリシェビズムは本質的にユダヤ的なもので、出自を隠そうとするユダヤ人は立場を悪くするだけだと批判した。 マスメディアは反ユダヤ報道を繰り返した。『タイムズ』『デイリー・メール』『オブザーバー』の社主ハームズワース・ノースクリフ子爵は反ユダヤ意識を持っており、配下の各新聞ではボルシェヴィキと国際ユダヤ人の陰謀が繰り返し報道された。タイムズは、ロシア革命でユダヤ人学生がエストニアのユーリエフで義勇軍を結成し多くの財が破壊されたと1917年春に報道し、11月にはレーニンたちはドイツから革命資金を得ており、ドイツ系ユダヤ人の血を引く山師であると報道、1919年にはモスクワでボルシェビキがイスカリオテのユダ記念碑を建立したと報道した。七月蜂起でのケレンスキー政権の声明に対してタイムズは「ペトログラードのソヴィエトは、国際ユダヤ人によって構成されている」と報じ、作家ギルバート・キース・チェスタトンは10月に、もしペトログラードのようにロンドンでも人々に教えを説くならば、ユダヤ人が我々に対して支配権をふるうことだけは断じて許容しないと忠告した。このほかモーニングポスト紙でもマーズデン記者がロシアで囚われた際にユダヤ人が拷問係であったし、ロシアの破壊者はユダヤ人だと証言し、『シオンの賢者の議定書』という証拠もあると述べた。 1917年12月にレーニンとスターリンがインドでの共産主義革命を扇動すると、大英帝国はあらゆる手段を用いて防いだ。1918年夏にイギリス政府は、ボルシェビキ政府打倒のためにロシアで反ユダヤのビラを飛行機で散布した。政府報告書では、ロシアにおけるボリシェヴィズムはドイツのプロパガンダの産物であり、国際ユダヤ人に指揮されており、ユダヤ人が企業の大部分を手中に収めると、飢餓が日常化し、1918年10月には女性の国有化がほぼ完成していたというロシア駐留イギリス海軍付き牧師B.S.ロンバードの証言も採録された。 1918年の冊子『ユダヤ人に踏みつけにされたイギリス』ではロシアとルーマニアを裏切ったドイツ皇帝の工作員のトロツキーとレーニンの指示で、ユダヤ人がイギリスを汚染していると主張された。 1919年1月から9月までのパリ講和会議でウィルソン米大統領とロイド・ジョージ英首相が、トルコのプリンキポ諸島で白軍と赤軍を招いて会議を開催すると提案し、ロシアのボリシェヴィキ体制を承認する姿勢を見せると、タイムズ紙はニューヨークのユダヤ人金融業者に吹き込まれたものと憤慨し、シベリアにいたノックス将軍も抗議した。タイムズ紙主幹ウィッカム・スティードがパリの『デイリー・メール』紙でボリシェヴィキは西洋文明の基礎を公然と覆す無法者であると主張すると、スティードはウィルソン米大統領腹心のハウス大佐から呼び出され、米国がボリシェヴィキを承認してしまったらヨーロッパでのボリシェヴィキの台頭をくい止めることはできなくなり、そうなるとウィルソン米大統領も信用を失い、国際連盟も瓦解すると諭し、プリンキポ諸島会議計画は、シフ、ウォーバーグたち国際金融業者であると語った。この対談が英米首脳にボリシェヴィキ体制を承認するのを思いとどまらせたとされる。ノースクリフ卿ハームズワースは、ロイド・ジョージ首相がシオニストのメルチェット卿アルフレッド・モンド(Alfred Moritz Mond)の政策を採用したことを攻撃していた。またタイムズは社説で、選民意識を持った人種のユダヤ人はモーセの掟に忠実で、人に赦しを与えようとせず、ロシアへの仇討ちはユダヤ人にとって甘美なる喜びであったと主張された モーニングポスト紙がイギリスのユダヤ人は共産主義から距離を置いていることを公示すべきであると訴えると、モナッシュ将軍、ライオネル・ロスチャイルドなど著名なユダヤ人が共産主義とシオニズムを否定して要求に応えた。 ウィンストン・チャーチルは1919年11月5日のロシア白軍への物資援助予算審議国会で、レーニンはチフス菌を都市の貯水槽に流し込むようにしてロシアに送り込まれ、またニューヨーク、グラスゴー、ベルンなどに潜む革命家を指揮するなど悪魔的に器用であると述べ、また1920年1月3日には社会主義者は全ての宗教を破壊しようとしており、ロシアとポーランドのユダヤ人が作り出す国際ソビエトに信を寄せていると演説した。チャーチルは1920年2月8日にサンデイヘラルド紙上の『シオニズム対ボルシェヴィズム:ユダヤ民族の魂のための闘争』で、ユダヤ人には祖国を再建しようとしているシオニストがいて、国際ユダヤ人がいる。国際ユダヤ人の運動は「スパルタクス」と呼ばれたアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)はイルミナティを結成してフランス革命の悲劇をもたらしたほか、マルクス、トロツキー、ハンガリーのクン・ベーラ、ドイツのローザ・ルクセンブルク、米国のエマ・ゴールドマンまで世界中で共謀しており、さらにテロリストで無神論のユダヤ人は実際にロシア革命を実行し、ハンガリー評議会共和国やバイエルン・レーテ共和国を築き恐怖をもたらしたが、大英帝国臣民であるユダヤ人国民は他のイギリス臣民のようにロシアの陰謀と戦うべきだし、ボルシェヴィズムはユダヤ人の運動ではないと明らかにすべきで、またパレスチナにユダヤ人国家を早急に建設すれば、不幸なヨーロッパからの避難所となり、ユダヤ教の栄光ある教会となる、と新聞で論じた。一方で、オスカー・ワイルドの恋人だったアルフレッド・ダグラス卿はチャーチルをシオン賢者の工作員として告発した。 1920年、モーニングポスト紙編集者ハウエル・アーサー・グウィンが序文を書いた『世界の不穏の原因』でも「シオン賢者」と「ユダヤ禍」が主張された。 1920年4月にはロイド・ジョージ首相とボルシェビキとの交渉が始まり、レオニード・クラシンが非公式にロンドンに招待された。タイムズは『シオン賢者の議定書』を引用して、ダビデの世界帝国を樹立しようとしている陰謀家との交渉であると批判した。また、スペイクテイター紙も議定書を引用して、ユダヤ人議員の入閣や、ユダヤ人への市民権授与には慎重であるべきで、ユダヤ人は危険因子で国際争乱の源泉であり「社会のペスト」であると繰り返し報道した。 1921年1月16日、在英ユダヤ人代表団(Board od deputies of British Jews)は反ユダヤ主義批判の声明を出した。これにはウィルソン、ハーディング、ルーズヴェルト、タフトら米国歴代大統領、銀行家モーガンなど、アメリカ人の著名人が名を連ねた。 タイムズ紙は1921年8月16・17・18日にフィリップ・グレイヴス記者による「議定書の終焉」記事を掲載し、タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった。
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