「外見的立憲君主制」から帝政の終焉とは? わかりやすく解説

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「外見的立憲君主制」から帝政の終焉(1905年 - 1917年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「「外見的立憲君主制」から帝政の終焉(1905年 - 1917年)」の解説

詳細は「東部戦線 (第一次世界大戦)」、「ロシア革命」、および「2月革命 (1917年)」を参照 総選挙の実施受けて政党結成され主な政党には自由主義右派政府寄り10月17日同盟十月党オクチャブリスト)と自由主義左派立憲民主党カデット)がある。既に結成されていた社会主義者社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキ選挙ボイコット決めており、1906年2月から3月行われたドゥーマ総選挙では政府選挙干渉にも関わらず立憲民主党過半数占めた一方ニコライ2世保守派十月詔書での大幅な譲歩後悔し始め1906年4月ヴィッテ罷免した。4月23日国家基本法憲法)が公布されたが、これは皇帝国会優越する立憲君主制としては限定的なものであった4月27日国会開会されたが、立憲民主党多数占め国会土地問題紛糾したため、ニコライ2世軍隊投入してこれを強制的に解散させた(第一国会)。ストルイピン大臣会議議長首相)に任命され1907年に再び総選挙が行われたが、選挙参加した社会革命党社会民主労働党躍進する、より急進的な国会となった第二国会)。ストルイピンはこの国会解散させ、有権者資格大幅に制限した改正選挙法6月3日クーデター英語版))でオクチャブリストはじめとする右派多数占め国会成立させた(第三国会)。この時期ロシア観察したドイツ社会学者マックス・ヴェーバーロシアの政治体制を「外見的立憲君主制」と形容している。 ストルイピン時代には国内騒然としており、水兵反乱農民暴動、そしてテロ頻発したが、彼は反政府運動徹底的に弾圧しており、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。その一方で、彼はさまざまな分野での改革取り組んでおり、懸案であった農業改革にも着手した。これはヴィッテ挫折した土地改革目的同じくしており、弊害多く効率が悪い、そして革命運動の温床となっていた農村共同体解体して富農個人農)を育成し農民社会主義者から引き離させて体制防波堤となそうとするものであった。この改革農民からの抵抗強く農村共同体(ミール)から離脱した農民20%(うち半数農地手放して都市労働者になっている)に留まり効果限定的なものであり、かえって富農貧農対立構造を生みだしてもいる。ストルイピン強権治安安定させつつ社会改革進めることを考えており、この時期農業生産拡大し重工業中心としたロシア経済活況呈したストルイピンは「二、三十年内外平静があればロシア大きく変わる」と語っていたが、1911年9月訪問先キエフ暗殺されロシア帝国自体にもその時間は与えられなかった。 1914年6月15日新暦6月28日)にオーストリア皇太子暗殺事件サラエボ事件)が発生したオーストリア事件背後にあると考えられセルビアに対して強硬な内容最後通牒突きつけた。ロシア汎スラブ主義立場からセルビア擁護する立場にあり、ニコライ2世総動員令を命じる。ドイツがこれに反応にして総動員令を発し7月19日新暦8月1日)に第一次世界大戦1914年 - 1918年)が勃発した開戦当初ロシアでは愛国的熱狂高まり自由主義者だけでなく社会主義者の中からも戦争支持する動き多くみられた。この一方でボリシェヴィキメンシェヴィキ議員団戦争反対表明し、、スイス亡命していたレーニンは「戦争内乱転化せよ」と唱え敗戦主義立場をとった。 パリへ電撃的進撃続けドイツ軍背後から叩くべく、ロシア軍東プロイセン侵攻するがタンネンベルクの戦い包囲殲滅されてしまう。この後ドイツ軍ロシア領内攻め込みロシア軍ドイツ軍オーストリア=ハンガリー軍、オスマン軍攻防繰り返した開戦から2年間で530万人上もの犠牲者出しており、国民兵士の間に厭戦気分広まったドイツ軍バルト海を、オスマン軍ドイツ軍黒海各々支配しロシア国外からの支援および市場からも遮断されていた。 1915年中頃には戦争へ意欲失われていた。都市では食料燃料不足しており、インフレーション激しくなり、各地抗議デモスト起こり前線では兵士脱走頻発したニコライ2世は自ら最高総司令官として戦争指揮をとっており、内政については皇后アレクサンドラ摂政役割果たしていたが、皇后そして皇帝からも心酔されていた宗教家ラスプーチン存在醜聞化して広められ皇帝権威をひどく損なったラスプーチン1916年12月貴族一派によって暗殺されたが、失われた皇帝権威再生させることにはならなかった。 1917年2月23日首都ペトログラード1914年サンクトペテルブルクから改名)で女子労働者デモ発生し、それから1週間以内市内のほとんどの労働者ストライキ入り市内各所衝突起こった労働者たちは集会開いて体制対す反抗示し、そして兵士たち公然と労働者側に与した事態急変受けて国会はコノヴァロフ(英語版)そしてケレンスキー努力によって国会臨時委員会英語版)を組織して権力掌握に動く。一方ペトログラード社会主義者たちは労働者および兵士代表するソビエト評議会)を結成し国会臨時委員会との不安定な協調関係構築して3月2日リヴォフ公を首班とする臨時政府樹立したモギリョフ総司令部にいたニコライ2世武力鎮圧試みるが失敗する3月2日国会議長ロジャンコからの要請受けたニコライ2世退位と弟のミハイル大公への譲位表明したが、3月4日ミハイル大公皇帝即位辞退したことにより、300年続いたロマノフ朝終焉した。

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