「外見的立憲君主制」から帝政の終焉(1905年 - 1917年)
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「「外見的立憲君主制」から帝政の終焉(1905年 - 1917年)」の解説
詳細は「東部戦線 (第一次世界大戦)」、「ロシア革命」、および「2月革命 (1917年)」を参照 総選挙の実施を受けて、政党が結成され、主な政党には自由主義右派で政府寄りの10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)と自由主義左派の立憲民主党(カデット)がある。既に結成されていた社会主義者の社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキは選挙のボイコットを決めており、1906年2月から3月に行われたドゥーマの総選挙では政府の選挙干渉にも関わらず立憲民主党が過半数を占めた。一方、ニコライ2世と保守派は十月詔書での大幅な譲歩を後悔し始め、1906年4月にヴィッテを罷免した。4月23日に国家基本法(憲法)が公布されたが、これは皇帝権が国会に優越する立憲君主制としては限定的なものであった。 4月27日に国会が開会されたが、立憲民主党が多数を占める国会が土地問題で紛糾したため、ニコライ2世は軍隊を投入してこれを強制的に解散させた(第一国会)。ストルイピンが大臣会議議長(首相)に任命され、1907年に再び総選挙が行われたが、選挙に参加した社会革命党と社会民主労働党が躍進する、より急進的な国会となった(第二国会)。ストルイピンはこの国会も解散させ、有権者の資格を大幅に制限した改正選挙法(6月3日クーデター(英語版))でオクチャブリストをはじめとする右派が多数を占める国会を成立させた(第三国会)。この時期のロシアを観察したドイツの社会学者マックス・ヴェーバーはロシアの政治体制を「外見的立憲君主制」と形容している。 ストルイピンの時代には国内は騒然としており、水兵の反乱や農民暴動、そしてテロが頻発したが、彼は反政府運動を徹底的に弾圧しており、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。その一方で、彼はさまざまな分野での改革に取り組んでおり、懸案であった農業改革にも着手した。これはヴィッテが挫折した土地改革と目的を同じくしており、弊害が多く効率が悪い、そして革命運動の温床となっていた農村共同体を解体して富農(個人農)を育成し、農民を社会主義者から引き離させて体制の防波堤となそうとするものであった。この改革は農民からの抵抗が強く、農村共同体(ミール)から離脱した農民は20%(うち半数は農地を手放して都市労働者になっている)に留まり、効果は限定的なものであり、かえって富農と貧農の対立構造を生みだしてもいる。ストルイピンは強権で治安を安定させつつ社会改革を進めることを考えており、この時期に農業生産が拡大し、重工業を中心としたロシア経済は活況を呈した。ストルイピンは「二、三十年の内外の平静があればロシアは大きく変わる」と語っていたが、1911年9月に訪問先のキエフで暗殺され、ロシア帝国自体にもその時間は与えられなかった。 1914年6月15日(新暦6月28日)にオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が発生した。オーストリアは事件の背後にあると考えられたセルビアに対して強硬な内容の最後通牒を突きつけた。ロシアは汎スラブ主義の立場からセルビアを擁護する立場にあり、ニコライ2世は総動員令を命じる。ドイツがこれに反応にして総動員令を発し、7月19日(新暦8月1日)に第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発した。開戦当初、ロシアでは愛国的熱狂が高まり、自由主義者だけでなく社会主義者の中からも戦争を支持する動きが多くみられた。この一方で、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの議員団は戦争反対を表明し、、スイスに亡命していたレーニンは「戦争を内乱に転化せよ」と唱え、敗戦主義の立場をとった。 パリへの電撃的進撃を続けるドイツ軍を背後から叩くべく、ロシア軍は東プロイセンへ侵攻するがタンネンベルクの戦いで包囲・殲滅されてしまう。この後、ドイツ軍はロシア領内に攻め込み、ロシア軍はドイツ軍やオーストリア=ハンガリー軍、オスマン軍と攻防を繰り返した。開戦から2年間で530万人以上もの犠牲者を出しており、国民や兵士の間に厭戦気分が広まった。ドイツ軍がバルト海を、オスマン軍とドイツ軍が黒海を各々支配し、ロシアは国外からの支援および市場からも遮断されていた。 1915年中頃には戦争への意欲は失われていた。都市では食料と燃料が不足しており、インフレーションが激しくなり、各地で抗議デモやストが起こり、前線では兵士の脱走が頻発した。ニコライ2世は自ら最高総司令官として戦争の指揮をとっており、内政については皇后アレクサンドラが摂政の役割を果たしていたが、皇后そして皇帝からも心酔されていた宗教家のラスプーチンの存在が醜聞化して広められ、皇帝の権威をひどく損なった。ラスプーチンは1916年12月に貴族の一派によって暗殺されたが、失われた皇帝の権威を再生させることにはならなかった。 1917年2月23日、首都ペトログラード(1914年にサンクトペテルブルクから改名)で女子労働者のデモが発生し、それから1週間以内に市内のほとんどの労働者がストライキに入り、市内各所で衝突が起こった。労働者たちは集会を開いて体制に対する反抗を示し、そして兵士たちは公然と労働者側に与した。事態の急変を受けて国会はコノヴァロフ(英語版)そしてケレンスキーの努力によって国会臨時委員会(英語版)を組織して権力掌握に動く。一方、ペトログラードの社会主義者たちは労働者および兵士を代表するソビエト(評議会)を結成し、国会臨時委員会との不安定な協調関係を構築して3月2日にリヴォフ公を首班とする臨時政府を樹立した。モギリョフの総司令部にいたニコライ2世は武力鎮圧を試みるが失敗する。3月2日、国会議長ロジャンコからの要請を受けたニコライ2世は退位と弟のミハイル大公への譲位を表明したが、3月4日にミハイル大公が皇帝即位を辞退したことにより、300年続いたロマノフ朝は終焉した。
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