「多善不要」の詭弁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:26 UTC 版)
「エウテュデモス (対話篇)」の記事における「「多善不要」の詭弁」の解説
エウテュデモスとディオニュソドロスが、クテシッポス相手にさらなる詭弁を披露し、クテシッポスも同様にやり返す。 エウテュデモスはクテシッポスの言葉尻を捉えて、しかしクテシッポスもソクラテスも他の人間の誰一人として、「善いことを、多く必要とはしない」と主張する。エウテュデモスはその理由として、「善いこと」を「多く必要とする」のであれば、「病人は可能な限り薬を飲む」「戦争において可能な限り槍や盾を持つ」必要が出てきてしまうと述べる。クテシッポスは、一つの盾、一本の槍で充分だというエウテュデモスに対して、ソフィストの2人は(両手利きの)腕利きかと思っていたと皮肉を言う。 エウテュデモスが黙り込むと、代わってディオニュソドロスがクテシッポスに、仮に「善いもの」を可能な限り多く、あらゆる処で持たなければならないのなら、「金」を3タラントンは腹の内に、1タラントンを頭蓋の内に、スタテール金貨を両目の内に持つ人は、この上もなく幸福だろうと指摘する。クテシッポスは、先程の(犬は「父」でありながら「クテシッポスの(犬)」だから、「クテシッポスの父」であるといった)語彙を結合・混同させる詭弁を用いるならば、(「頭蓋骨」を杯(髑髏杯)として使用するとされている)スキティア人にとって、「髑髏杯」は「頭蓋骨」でありながら「自分自身の(所有する杯)」であり、「自分自身の頭蓋骨」ということになるので、その中に「金」をたくさん持っている者が一番幸福であり立派ということになるとやり返す。そして、さらに不思議なのは、その「自分自身の頭蓋骨」から酒を飲んだり、それを両手で抱いて内側を見たりすることだと、詭弁を皮肉る。 エウテュデモスが詭弁を用いてそれも見ることができるものだとやり返すと、クテシッポスは自分は「無」も見ることができるし、エウテュデモスは「目をつむらないで、寝入っている」「ものを言いながら、何も言わない」ようなものだとさらに詭弁を批判する。
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