「外蒙古」と「内蒙古」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:13 UTC 版)
「モンゴル民族」の記事における「「外蒙古」と「内蒙古」」の解説
外蒙古は、内蒙古とセットで19世紀後半の中国において出現した概念で、上述の清朝の制度とはまったく別個に、北京を基準とし、ゴビ砂漠をおおよその境界としてモンゴル草原を地理的に「内と外」に区分する概念である。これらの概念を用いたもっとも初期の文献として、伝祁韻士著『皇朝藩部要略』(1839-45編,1884刊)や張穆『蒙古遊牧記』(1859)などがある(→詳細および典拠は外藩蒙古)。モンゴル国の領土はこの両書にいう「外蒙古」にダリガンガ牧場およびアルタイ山脈以西の地(現バヤン・ウルギー州)を加え、タンヌ・ウリャンハイ(現ロシア連邦トゥヴァ共和国)を差し引いた形で成立した。 外蒙古(外蒙古)は、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)が、中国の北京を基準としたこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身は「北(アル)モンゴル」と称している。モンゴル国の主要部を占め、住民の8割弱がハルハ族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テュルク系民族の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は1941年以来キリル文字であるが、民主化後は古来の縦書きモンゴル文字も学校教育で教えられている。 詳細は「モンゴル族 (中国)」を参照 現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国(北元)の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口は外モンゴルのモンゴル国に対し、モンゴル系のモンゴル族が1割であり、残り8割が漢民族で占められてる。ただし、モンゴル族の数は581万人(2000年)に達してモンゴル国の人口を上回っている。漢語や漢字を解するなど文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいるが、基本的に文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する。
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