初期の文献
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2世紀の半ば頃クラウディオス・プトレマイオスが『ゲオグラフィア(地理学)』でバルト海沿岸に住む他の居住者と共にオーエネダイ(英: Ouenedai)について言及しており、昔の学者にはこれが中世のヴェンド人と同義であると主張する者もいた。言語学者の中には、オーエネダイとその当時のスラヴ人は語派が異なっていたはずであり、言語学的に異なっているのであるからこれをヴェンド人と同一視出来ないと主張する者がいる。 しかし現代の考古学的成果によると、この地方では先史時代より球状アンフォラ文化、縄目文土器文化、ウーニェチツェ文化、トシュチニェツ文化、ルサチア文化、ポメラニア文化、プシェヴォルスク文化、そしてスラヴ人の文化であると明白に確定している中世前期のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合のうち、この地方独特の地方文化であるプラハ文化(そのさらに一部のコルチャク文化)へと、その特徴でも時代でも断絶なく引き継がれており、プトレマイオスの時代のオーエネダイはこのうちプシェヴォルスク文化に属する人々であったことから、この地方のスラヴ人(西スラヴ人)である中世ヴェンド人とは完全に同一の集団ではないものの、遺伝的・文化的には中世ヴェンド人の基層的な先祖、すなわちプロト・スラヴ人ないしプレ・プロト・スラヴ人であった可能性は高い。
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初期の文献
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「ミロシュ・オビリッチ」の記事における「初期の文献」の解説
ラザル・フレベリャノヴィチ崇敬関連のものを主とする、コソヴォの戦いにかんする初期の文献には、ミロシュや彼のスルタン暗殺に関する言及は見られない。ただスルタンのムラト1世が暗殺されたという話は、戦闘からわずか12日後の1389年7月9日に助祭イグナティイェ(英語版)が初めて記録している。1389年7月23日にはヴェネツィア共和国の元老院(英語版)がアンドレア・ベンボに宛てた指示書の中で、ムラト1世とその子のうちの一人が暗殺されたという記述が為されている。ただしヴェネツィア人たちは、この暗殺の情報は定かではないとしている。1389年8月1日、ボスニア王スティエパン・トヴルトコ1世(英語版) (在位: 1353年-1391年) は、トロギル市民に宛てた書簡で「オスマン帝国の敗北」を知らせている。「トルコ人に対する勝利」 (ラテン語: ob victoriam de Turcis)という文言は、フィレンツェ共和国書記官長コルッチョ・サルターティ (1406年没)がフィレンツェ元老院代表としてスティエパン・トヴルトコ1世に宛てた1389年10月20日の書簡にも見られる。ここに暗殺者の名前は言及されておらず、代わりに12人のキリスト教徒貴族がオスマン軍の戦列を打ち破ったのだと記されている。 「剣で道を切り開き、敵の戦列と鎖でつながれたラクダの輪を突き破り、勇ましくアムラート(ムラト1世)の天幕にたどり着いた十二人の忠実なる臣たちの手は、幸い、最も幸いなるものであります。このような強いヴォイヴォダを、剣で喉と腹を刺して力強く殺した者は、何よりも幸いであります。そして、死んだ指導者の醜い死体の上に、犠牲者として殉教という輝かしい方法によって命と血を捧げた人々は、皆祝福されております。」。 またイタリアの商人ベルトランド・デ・ミグナネッリ(英語版)が1416年に記した著作によれば、オスマン帝国のスルタンを殺害したのはセルビア側の司令官たるラザル・フレベリャノヴィチ本人だったことになっている。 セルビアの文献で初めてムラト1世暗殺の話が登場するのは、1440年代にコンスタンティン・コステネチキ(英語版)が著した、ラザル・フレベリャノヴィチの子ステファン・ラザレヴィチ(英語版)の伝記である。暗殺者の名はまだ挙げられていないが、その人物は高貴な生まれで、嫉妬にかられた者たちがラザルの前でその名誉を傷つけようとするような人物だったとされている。これに対し彼は己の忠誠心を証明するため、脱走と見せかけて単身で戦列を離れ、機会をとらえてスルタンを刺殺し、間もなく自分も殺されたのだという。屈辱を背負い、それをスルタン殺害と言う勇敢な企みによって晴らすという筋書きは、後に生まれるセルビアの伝説で欠かせない要素となった。
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