初期の文筆活動
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1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の『読売新聞』から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元手に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(1889年10月-1894年8月。日清戦争の勃発により59号で廃刊)。 このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』1890年1月に発表した。続いて「うたかたの記」(『しがらみ草紙』1890年8月)、1891年1月28日「文づかひ」(「新著百種」12号)を相次いで発表したが、とりわけ日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。 1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。
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