三木竹二
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三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。
- ^ 竹二は、ほかの兄弟と同じように母に優しく、面白いと思った芝居に後日、母を連れて行った。後年、30代の竹二が高齢の母を気づかいながら、劇場内を移動する様子が見られた。
- ^ 執筆だけではなく、公務などで多忙な鷗外に代わり、校正や渉外的な役割も担った。渉外の様子は、樋口一葉の日記(明治29年6月2日、同11日、7月20日など)にも残された。小金井(2001)、158-164頁。
- ^ 創刊号は、題字・尾崎紅葉、表紙絵・中村不折。なお金子幸代は、「当時の演劇状況を網羅し、毎月の各座の劇評を載せる演劇研究の総合雑誌として重要な位置にあったこと、また編集者として型の記録に心血をそそいだ竹二を高く評価した」と石川淳の評を要約した上で、「いわば『歌舞伎』の魅力は、伝統演劇、歌舞伎の見功者であった竹二と、ドイツの近代演劇を実際に見てきた鷗外という二つの音色がかもしだす清新なハーモニーであったと考えられる」とした。
- ^ 最期の様子は、小金井(2001)が詳しい。
- ^ 小金井(2001)、200頁。
- ^ 『演劇百科大辞典』、289頁。
- ^ 史伝の『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』に登場する芝居好きの人々、未刊行の小説『本家分家』など。とりわけ『本家分家』では、竹二を次のように書いた。「博士と弟とは喧嘩というほどの喧嘩をしたことがない。それは弟が兄を凌ぐことがあっても、兄は笑っており、後には弟が後悔したからである。二人の次に生まれた妹は、嫡男の博士にそっくりの女で、博士とは何事につけても諧和し、「小さい兄さん」の俊次郎を抑制するようにしていた」。その妹、小金井喜美子は、竹二を次のように書いた。校正などが「綿密で、凝性で、一刻で、正直というのが特質でしたから、自然ひどく人の好嫌をされました。嫌うのは嘘つきと見栄坊なのでした」、2001年、172頁。また喜美子は、回想記で竹二を活写し、雑誌『しがらみ草紙』や『歌舞伎』や新聞記事など、竹二に関する記録を多く書き残した。
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