演劇界での業績
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上述のように、学生時代より歌舞伎の劇評家として活躍した。『歌舞伎』での執筆と責任編集は、1907年12月の92号が事実上の最後であり、また開業医のかたわら、死の直前まで医学雑誌の仕事と新聞3紙の劇評とを引き受けていた。その『歌舞伎』は、竹二の没後に数か月ほど休刊したものの、伊原青々園が中心になって1914年12月の174号まで刊行された。とくに節目の100号は、竹二の追悼号とされ、多くの人が文などを寄せた。 竹二の業績について「画期的な仕事であり、今日もなお権威を失わず、歌舞伎演出研究には欠かせない」と評された。なお鷗外とは、共訳や雑誌発行などで文芸活動をともにした。鷗外は、弟が責任編集を務める『歌舞伎』に翻訳戯曲と西洋演劇の紹介記事などを多数提供しており、また鷗外作品の一部に亡弟の影が浮かんでいた。 歌舞伎の型などを研究し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した。その劇評をまとめ『観劇偶評』(岩波文庫)が刊行している。また、森まゆみ『鴎外の坂』によると、妻・久子も白井真如の名で劇評を書いていたとし、彼女や岡田八千代など、女性の劇作家・劇評家を育てたことも大きな業績であるとしている。なお、久子は竹二没後、建部遯吾と再婚した。
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