演劇界への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:30 UTC 版)
「ベルトルト・ブレヒト」の記事における「演劇界への進出」の解説
1919年秋より独立社会党機関紙『フォルクス・ヴィレ』で市立劇場の劇評を担当、既成演劇への反発からほとんどの上演に対して辛辣な批評を書いた。当時ブレヒトの興味を引いたのはヨハン・アウグスト・ストリンドベリやゲオルグ・カイザーの戯曲、アルフレート・デーブリーンなどの新しい小説であり、トーマス・マンやフランツ・ヴェルフェルに対してはブルジョワ文学とみなして終生敵対的な立場をとった。またこの頃ミュンヘンの寄席芸人カール・ヴァレンティンに魅せられ、彼のために数編の茶番劇を執筆した。1921年、小説『バルガンの成行きまかせ』が『メルクール』誌に掲載された。 1920年春、続いて1921年秋にベルリンを訪れ、表現主義作家や俳優と親交を結んだ。特に劇作家アーノルト・ブロンネン (Arnolt Bronnen) と親密になり、それまでベルト・ブレヒトの筆名を使っていたブレヒトは彼の名にちなんでベルトルト・ブレヒトに改め、綴りも本名の「Bertold」ではなく「Bertolt」とした。またベルリンでは『バール』の出版契約を結び、ドイツ座にてマックス・ラインハルト演出のストリンドベリ劇(『夢の戯曲』)の稽古に立ち会った。 1922年夏、『夜うつ太鼓』がミュンヘンの室内劇場で初演された。演出はオットー・ファルケンベルク (Otto Falckenberg) が担当したが、ブレヒト自身も稽古に立会い指示を出した。この上演は劇評家ヘルベルト・イェーリングによって紙上で激賞され、この年のクライスト賞を受賞し一躍脚光を浴びた。ブレヒトはこのミュンヘンの劇場の文芸部員となり、また同年末、最初の妻マリアンネ・ツォフと結婚、翌年に娘ハンネ(後の女優ハンネ・ヒオプ)が生まれたが、ツォフとは1927年に離婚している。 1923年に『バール』、続いて『都会のジャングル』を王宮劇場で上演。同じ頃、2番目の妻であり生涯の伴侶となるヘレーネ・ヴァイゲルと出会った。1924年、クリストファ・マーロウの戯曲『エドワード二世』を翻案した『イングランドのエドワード二世の生涯』を演出、ミュンヘンの室内劇場にて上演した。この作品でブレヒトは控えめな衣装・小道具を用い、兵士役の俳優に白塗りをした。こうした演出の簡素さは、後に彼が主宰するベルリーナー・アンサンブルの特徴となる。
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