第一次世界大戦をめぐって
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「第一次世界大戦をめぐって」の解説
1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとドイルは愛国者として全面的に政府に戦争協力することを決意した。 ドイルは、全国に先駆けて地元クロウバラに「義勇軍」と称する民兵団を創設した。この組織は軍部からも注目され、のちに「第6近衛サセックス義勇連隊クロウバラ隊」として再編成された。ドイルは大戦全期を通じてこの部隊に一兵卒として所属していた。 政府と軍部は著名な作家であるドイルを徹底的に戦意高揚に利用する腹積もりであり、ドイルに各地の前線視察や従軍記執筆を依頼した。ドイルはそれらの要請を快諾し、各戦線を練り歩いて士気を鼓舞する演説を行った。ドイルはどこの戦線でも将兵から人気があったという。1915年からは戦史『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』の執筆を開始し、1920年までに全6巻で完成させた。大戦中のドイルはかつてないほどエネルギッシュに行動し、彼自身ものちに「自己の身体的絶頂期」と評している。 1916年末には強力な総力戦体制・戦時体制構築を目指すロイド・ジョージが首相に就任し、ドイルも政府から一層の戦争協力を求められるようになった。しかし軍部による社会監視も強化され、ドイルの書く歴史書も軍の検閲で修正・削除されることが多くなり、ドイルの苛立ちは募った。ロイド・ジョージを称える公式伝記を書くよう求められたこともあったが、ドイルには首相の伝記を書くことが目下の戦争遂行に必要とは思えなかったとして断っている。 ホームズ関連では、開戦前の1914年4月に書きあげた長編『恐怖の谷』が『ストランド』1914年9月号から9回にわたって連載された。また戦況が泥沼化している1917年にはホームズがドイツ軍スパイの裏をかくという内容の短編『最後の挨拶』を戦意高揚のために執筆した。この作品は同年9月の『ストランド』誌に掲載され、「シャーロック・ホームズの戦争での任務」という副題がつけられた。この作品と1908年から1913年にかけて発表されてきたホームズ短編は1917年に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』として単行本化されている。 しかしドイルは盲目的に愛国旗振り役だけに徹したわけではなく、1916年には大戦に乗じて反乱を起こしたアイルランド独立運動家サー・ロジャー・ケースメントの死刑執行延期の嘆願書に署名している(しかし功を奏せず、ケースメントは反逆罪でただちに処刑された)。 大戦中、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われた。妻ジーンの弟マルコム・レッキーが最初に戦死し、ついで妹の夫や2人の甥が戦死した。1918年10月には26歳の長男キングズリーが前線で病死した。1919年2月には若い弟イニスも病死した。
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