白軍と赤軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:30 UTC 版)
「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「白軍と赤軍」の解説
1919年1月24日、南ウクライナを占拠した南ロシア軍の総軍司令官アントーン・デニーキンは、ニコラーエフにあったアドミラール・ナヒーモフ(旧ヘチマン・ボフダン・フメリニツキー)の完成作業への着手を指示した。その後、白軍は約2ヶ月にわたって新型巡洋艦の建造を進めた。 1919年春には赤軍がウクライナでの勢力を盛り返し、ニコラーエフ、ヘルソーン、オデッサ、そしてクリミア半島を占領した。これらの町は、ボリシェヴィキがウクライナ支配のために建設したウクライナ社会主義ソヴィエト共和国の領土に組み込まれた。赤軍は、ニコラーエフおいてアドミラール・ナヒーモフや戦艦デモクラーチヤ(旧インペラートル・ニコライ1世)などの建造を急いだ。また、ドイツ軍によってセヴァストーポリ軍港に引き揚げられていた沈没戦艦インペラトリーツァ・マリーヤも設備の整ったニコラーエフのドックへ運ばれ、その修繕と戦力化が開始された。 1919年の夏、南ロシア軍が再びウクライナ東南部全土を掌握した。南ロシア軍は、旧帝国黒海艦隊の戦艦ゲネラール・アレクセーエフや防護巡洋艦ゲネラール・コルニーロフを中心とする有力な艦隊を率いていた。そして、艦隊力のさらなる増強のため、アドミラール・ナヒーモフなどの建造や修理を進めた。 1919年の秋以降、南ロシア軍は赤軍の強力な反撃に遭った。南ロシア軍が劣勢になったのにともない、白系各軍は撤退の準備を始めた。白軍は、艦隊の力を頼りにクリミアと南ウクライナへ踏み止まろうとした。ルッスードの船台にあったアドミラール・ナヒーモフは、1920年1月24日、ニコラーエフから撤退する白軍の手によりオデッサへ曳航され、その地で建造が続行された。赤軍は黒海とアゾフ海を掌握したが、そこにはもはやまともな艦艇は残されていなかった。 1920年初にはどうにか完成に漕ぎ着けたアドミラール・ナヒーモフであったが、白軍内部では親赤軍派による密かな反乱が企てられていた。白軍の撤退に伴いオデッサからセヴァストーポリへ回航しようとした際、乗組員は意図的に艦を浅瀬に乗り上げたのである。ノヴィーク級駆逐艦ザンテでも同様の反乱が発生した。 結局、白軍はこうした新鋭艦を手放さざるを得なかった。2月にオデッサが赤軍の手に落ちると、アドミラール・ナヒーモフは赤軍により浮揚され、ニコラーエフへ戻された。また、このとき以降、ウクライナ東南部には赤軍の支配が定着した。 白軍の劣勢は挽回されず、総軍司令官であったデニーキン自身が4月にはコンスタンチノポリ(イスタンブール)に向けて戦艦マールバラで逃亡してしまった。デニーキンの後継者となったピョートル・ヴラーンゲリは白軍組織を改編し、新たにクリミアを拠点とするロシア軍を編成した。ヴラーンゲリは、アドミラール・ナヒーモフやザンテの経験から、一次大戦に際して臨時召集された黒海艦隊の水兵に信を置かず、ロシア軍艦隊の構成員は主として義勇将校からなっていた。 白軍は、最終的に1920年11月のペレコープ=チョンガールの戦いに敗れたが、この際にヴラーンゲリの黒海分艦隊やアゾフ分艦隊は期待したような働きを見せることはなかった。
※この「白軍と赤軍」の解説は、「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「白軍と赤軍」を含む「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事については、「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 白軍と赤軍のページへのリンク