中央アジアでの展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 23:57 UTC 版)
「ジャディード運動」の記事における「中央アジアでの展開」の解説
中央アジアでは、19世紀末にヴォルガ・タタール人の商人らにより新方式教育が導入され、多くの支持者を獲得した。 1917年のロシア革命後には、ジャディードによる政治運動も活発になった。英国諜報部員フレデリック・ベイリー(英語版)が政治運動に関与していた記録が残っている。ベイリーは、ボルシェビキとドイツによる中央アジアでのカルムイク・プロジェクト(英語版)に対抗する勢力としてこの運動を利用した。ロシア領トルキスタンでは、ムスタファ・チョカイ(英語版)(Мустафа́ Шока́й)らジャディードと、ウラマー、地主ら在地有力者によりコーカンドにて自治政府が樹立、セミパラチンスクではアリハン・ボケイハノフ(英語版)らカザフ人ジャディードによりアラシュ・オルダ政権が樹立された。ロシアの保護国であったブハラ、ヒヴァの両国では赤軍の介入により、ブハラ人民ソビエト共和国、ホラズム人民ソビエト共和国が樹立され、ファイズッラ・ホジャエフ、フィトラト(en:Abdurrauf Fitrat)らジャディードも政権に参画した。 しかし、コーカンド自治政府は、タシュケント・ソビエト軍の介入により崩壊し、アラシュ・オルダ政権もロシア内戦で白軍と赤軍の間で翻弄され解体された。 中央アジアのジャディードたちは、当初はボリシェヴィキの権力掌握に協力し、自らの社会改革の要求を実現することに努めた。しかし、1924年には中央アジアの民族境界画定が行われ、中央アジアの統治システムに大きな変革が加えられ、次第に影響力を喪失していった。ホジャエフをはじめとする大半のジャディードは、1930年代に政権から追放され処刑された。 ソ連邦崩壊後、ウズベキスタンやタタールスタン等の諸国では、共和国の公的史観を確立するにあたり、ジャディードの役割が再評価されている。
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