中央アジアと南アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:48 UTC 版)
「イブン・バットゥータ」の記事における「中央アジアと南アジア」の解説
スィノプから海路でジョチ・ウルス領のクリミア半島へ到着。港街アゾフにてハンのアミールに出会う。その後豊かな大都市マジャル(英語版)を訪れる。そしてマジャルからウズベク・ハンのオルドを訪問するために出発。この当時、ハンのオルドはベシタウ(英語版)山の近くにあった。その後ブルガール(Bolghar)へ向かう。この街が彼の旅のなかでの北限となった。夏の夜が(亜熱帯出身者からすれば)極端に短いと記録している。その後ウズベク・ハンのオルドに戻り、彼らとともにアストラハンまで移動した。 彼はこの地域の夜の短さに関してエピソードを書き残している。イブン・バットゥータはラマダン月にブルガールに到着するや否やマグリブ・サラート(日没の礼拝)を告げるアザーンを聞き、そのまま礼拝に参加した。そしてそのすぐ後に夜の礼拝(イシャー)、続いてラマダンの礼拝(Tarawih)を行った。これら一連の礼拝の後、彼は少し体を休めようとした。しかしそうこうしていると彼の道連れがやってきて、夜が明けるのでスフール(断食に備えて摂る夜食)を摂るようにとせかす。スフールを食べ終えるや、ムアッジンが夜明け前の礼拝(ファジュル)を告げた。彼は一睡する暇もなかった。ブルガール滞在中彼は「ディヤーリー・ズルーマート(英語版)」(「闇の地」の意)を訪れてみたいとも書き残している。その地は遍く雪で覆われていて(シベリア北部のこと)唯一の移動手段は犬ぞりである。神秘的な人々が暮らし彼らは姿を見せることを嫌う。それでも彼らは南方の人々と奇妙な方法で交易を行っている。南の商人は夜にさまざまな商品を開けた雪原に並べておき、自分たちのテントに戻る。そして翌朝その場所にもどると商品はその神秘的な人々に持ち去られ、代わりにコートなど冬の衣類の素材となる上等な動物の毛皮が置かれている。この交易は神秘的な人々と商人がお互いの顔を見ることなく行われる。イブン・バットゥータは商人ではないしそれほど値打ちのある旅に思えなかったので「ディヤーリー・ズルーマート」への寄り道は差し控えた。 アストラハンに着くと、ウズベク・ハンは妊娠中の后の一人、東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの娘バヤルン妃(Princess Bayalun)にコンスタンティノープルへ出産のための帰郷を許可する。イブン・バットゥータは頼み込んでコンスタンティノープルへ向かう一行に同行させてもらった。これがイスラム世界を出た最初の旅となった。 1332年(あるいは1334年)も終わりに差し掛かったころにコンスタンティノープルに到着。彼は東ローマ帝国のアンドロニコス3世パレオロゴスに謁見している。名高い教会アヤソフィアを訪れ、正教の司祭に旅の中で訪れたエルサレムの話をして聞かせた。ひと月滞在した後、イブン・バットゥータはアストラハンに戻った。その後首都サライを訪れ、スルタンのウズベク・ハンに旅の報告をした。その後カスピ海、アラル海を越えブハラ、サマルカンドを訪れた。そこでまた別のモンゴルの王、チャガタイ・ハン国のタルマシリンのもとを訪れている。そこから彼は南へ向かいモンゴル治世下のアフガニスタンを旅した。そのままヒンドゥークシュ山脈の山道を経てイブン・バットゥータはインド入りを果たした。旅行記で彼はこの山岳地帯の名称と奴隷貿易の関係について触れている。いわく、 この後、私は山岳地帯をバーワン(Barwan)の街へ向かった。山道は雪で覆われ凍えるように寒い。この地域はヒンドゥ・クシュ、すなわち「インド人殺し」と呼ばれている。厳しい寒さのために取税人の連れてくる奴隷のほとんどが死んでしまうのが理由だそうだ。 —イブン・バットゥータ、Chapter XIII, Rihla - Khorasan イブン・バットゥータと彼の一行は1333年の9月12日にインダス川に達しているこれより彼はデリーへ向かいスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクに謁見している。
※この「中央アジアと南アジア」の解説は、「イブン・バットゥータ」の解説の一部です。
「中央アジアと南アジア」を含む「イブン・バットゥータ」の記事については、「イブン・バットゥータ」の概要を参照ください。
- 中央アジアと南アジアのページへのリンク