中央アジアからの伝道
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「仏教のシルクロード伝播」の記事における「中央アジアからの伝道」の解説
2世紀中ごろに、カニシカ王治下のクシャナ朝が中央アジア方面に伸長し、今日の新疆、タリム盆地のカシュガル・ホータン・ヤルカンドを統治下に置くに至った。その結果、文化的交流が非常に盛んになり、すぐに中央アジアの仏教徒の宣教師が中国の首都の洛陽や、時には建業でも活動するようになった。その地で彼らは翻訳作業によって有名になった。彼らは部派仏教の仏典と大乗仏典の両方を漢訳した。37人の翻訳者が知られている。 安世高、パルティア人の王子で最初にアビダルマ仏典を漢訳した(148年–170年)ことで知られる 支婁迦讖、クシャナ人で最初に大乗仏典を漢訳した(167年–186年) 安玄、パルティアの商人で、181年に中国で出家した 支曜(185年頃)、クシャナ人の仏僧で、支婁迦讖に次ぐ訳経僧第二世代である 康孟詳 (194年–207年)、康居出身者では最初の訳経僧 支謙(220年–252年)、クシャナ人僧侶で祖父が168–190年に中国に移住した 康僧会(247年–280年)、現代のハノイ周辺で中華帝国の最南端だった交趾出身で、ソグド人商人の息子 曇諦 (254年頃)、パルティア人の僧侶で『曇無徳羯麿』を漢訳した。 帛延 (259年頃)、亀茲の王子 竺法護(265年–313年)、クシャナ人で一族は代々敦煌に居住していた 安法欽 (281年–306年)、パルティア系の僧侶 室利蜜多羅 (317年–322年)、亀茲の王子 鳩摩羅什(401年頃)、亀茲の僧侶で最も有名な訳経僧の一人 仏図澄 (4世紀)、中国宮廷で顧問となった中央アジア人の僧侶 達磨 (440年–528年)、楊衒之によれば、中央アジア系の僧侶で、楊衒之は520年頃に洛陽で彼と出会ったという。達磨は禅宗の開祖であった。 ガンダーラ出身の五人の僧侶が485年に扶桑(海を越えた「極東の国」、おそらく日本)へ旅し、そこで仏教を紹介した: かつて、扶桑の人々は仏教について何も知らなかったが、宋の大明二年(西暦458年)に罽賓から五人の僧侶が船でこの国にやってきた。彼らは仏教の教えを広め、仏典や仏画を紹介してまわり、俗世に執着することをやめるよう人々に勧めた。結果として扶桑の慣習が変わった。 (原文: 「其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風 俗遂改。」 『梁書』、7世紀) 闍那崛多(あるいは志徳、(561年–592年)、ガンダーラ出身の訳経僧 実叉難陀(652年–710年)、ガンダーラ地方ウディヤーナ出身の訳経僧 般若(810年頃)カーブル出身の訳経僧で日本の空海にサンスクリットを教えた
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