中央アジアからの伝道とは? わかりやすく解説

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中央アジアからの伝道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 08:33 UTC 版)

仏教のシルクロード伝播」の記事における「中央アジアからの伝道」の解説

2世紀中ごろに、カニシカ王治下クシャナ朝中央アジア方面伸長し今日新疆タリム盆地のカシュガル・ホータン・ヤルカンドを統治下に置くに至ったその結果文化的交流が非常に盛んになり、すぐに中央アジア仏教徒宣教師中国の首都洛陽や、時には建業でも活動するようになった。その地で彼らは翻訳作業によって有名になった。彼らは部派仏教仏典大乗仏典両方漢訳した。37人の翻訳者知られている。 安世高パルティア人の王子最初にアビダルマ仏典漢訳した(148年170年)ことで知られる 支婁迦讖クシャナ人で最初に大乗仏典漢訳した(167年186年) 安玄、パルティア商人で、181年中国出家した 支曜(185年頃)、クシャナ人の仏僧で、支婁迦讖に次ぐ訳経僧第二世代である 康孟詳 (194年207年)、康居出身者では最初訳経僧 支謙220年252年)、クシャナ僧侶祖父168190年中国移住した 康僧会247年280年)、現代ハノイ周辺中華帝国最南端だった交趾出身で、ソグド人商人息子 曇諦 (254年頃)、パルティア人の僧侶で『曇無徳羯麿』を漢訳した。 帛延 (259年頃)、亀茲王子 竺法護265年313年)、クシャナ人で一族代々敦煌居住していた 安法欽 (281年306年)、パルティア系の僧侶 室利蜜多羅317年322年)、亀茲王子 鳩摩羅什401年頃)、亀茲僧侶で最も有名な訳経僧一人 仏図澄4世紀)、中国宮廷顧問となった中央アジア人の僧侶 達磨440年528年)、楊衒之によれば中央アジア系の僧侶で、楊衒之520年頃に洛陽で彼と出会ったという。達磨禅宗開祖であったガンダーラ出身五人僧侶485年扶桑(海を越えた極東の国」、おそらく日本)へ旅し、そこで仏教紹介した: かつて、扶桑人々仏教について何も知らなかったが、宋の大明二年(西暦458年)に罽賓から五人僧侶が船でこの国にやってきた。彼らは仏教教え広め仏典仏画紹介してまわり、俗世執着することをやめるよう人々勧めた結果として扶桑慣習変わった。 (原文: 「其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家風 俗遂改。」 『梁書』7世紀闍那崛多(あるいは志徳、(561年592年)、ガンダーラ出身訳経僧 実叉難陀652年710年)、ガンダーラ地方ウディヤーナ出身訳経僧 般若810年頃)カーブル出身訳経僧日本空海サンスクリット教えた

※この「中央アジアからの伝道」の解説は、「仏教のシルクロード伝播」の解説の一部です。
「中央アジアからの伝道」を含む「仏教のシルクロード伝播」の記事については、「仏教のシルクロード伝播」の概要を参照ください。

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