中央への屈伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:52 UTC 版)
「ブドゥ・ムディヴァニ」の記事における「中央への屈伏」の解説
その後、ムディヴァニは1922年3月12日から12月4日まではザカフカース連邦共和国連邦会議議長、同年末から中央執行委幹部会グルジア共和国代表や制憲委員も務めた。しかしこれらは実質的な左遷であり、さらに翌1923年6月には中央執行委により更迭されている。 1922年4月からはグルジア共和国外務人民委員、1923年11月23日から翌1924年11月まではソビエト連邦コンセッション大委 (ru) 委員を務めたが、左翼反対派(ロシア語版)に属していたため同月から1926年9月までは駐フランス・連邦通商代表、翌10月から1928年1月までは駐イラン・連邦通商代表という左遷を受けた。翌2月から12月までは連邦国家輸出入合資会社オリョール支社長を務めたが、同月に反党活動を理由に逮捕され、党籍剥奪とシベリアへの3年の追放刑に処された(翌1929年に懲役3年に変更)。 しかし1930年5月には釈放され、翌6月から翌1931年6月までグルジア絹トラスト長に就き、同年には反党組織からの離脱表明をして党籍回復もなされた。スターリンとも和解し、ムディヴァニはモスクワを訪れるとスターリン宅に泊まり、スターリンもグルジアを訪れるとムディヴァニ宅を訪問する仲に戻った。また、スターリンはムディヴァニの息子の名付け親にさえなった。再度重用されるようになったムディヴァニは、その後1913年7月から翌1932年までグルジア共和国国民経済最高会議(ロシア語版)議長、同年7月から1934年12月まで軽工業人民委員を務め、同月からは人民委員会議第一副議長に就いた。
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