中央アジアでの逃避行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:30 UTC 版)
しかし、翌1259年(己未)にモンケ・カアンは遠征先で急死してしまい、残された親征軍はクンドゥカイらの指揮によって北上し陝西地方まで戻った。一方、モンゴル帝国ではモンケの後継者の座を巡り遠征軍の一部を率いるクビライと本拠地カラコルムを守るアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、クンドゥカイら旧モンケ親征軍はアリクブケ派につくこと表明した。クビライ派の方が有利と見た耶律鋳は旧モンケ親征軍を離脱することを決意したものの、クンドゥカイらの監視の目は厳しく、やむなく妻子を捨てて単身クビライの陣営に逃れた。耶律鋳の読みは大いに当たり後に勝者となるクビライ陣営の下で耶律鋳は高官として栄達したものの、残された希亮とその母は怒ったクンドゥカイによって強い監視の下に置かれた。その後、北上して甘粛地方の西涼・甘州に至るとアリクブケ派の中心人物のアラムダールとクンドゥカイが耶律鋳の行く先を審問したものの、「もし行く先を知らされていれば、このように一人軍中に留まることはなかった」と答え、この回答をもっともだとしたアラムダールによって軟禁状態は解かれた。 一方、アリクブケ軍は実戦経験豊富なクビライ軍に押されて劣勢となり、クンドゥカイらも敗死したことによってカラ・ブカ(哈剌不花)を指揮官として西に逃れた。希亮はこれ逃れるチャンスと見て甘州の北に潜んだが、結局は見つかってカラ・ブカの下に引き出された。ところが、カラ・ブカはかつて病に陥った時に耶律鋳が医者を手配してくれたことで助けられた恩があると語り、希亮らの身の安全は保証すると請け負った。そこで希亮はカラ・ブカの軍団に留まって更に西進し、やがて天山山脈を越えてウイグリスタンに入り、ジャン・バリクを経てエミル城に至った。 エミルは第3代皇帝グユクの領地であるが、グユクの末子のホクは帝位争いに敗れてモンケ家から弾圧を受けた経緯からモンケ政権を引き継ぐアリクブケ政権を嫌っており、希亮らを通じてクビライと誼を通じようとした。また、この頃アリクブケからチャガタイ・ウルスに送り込まれたアルグもアリクブケ政権を見限ってクビライ派についており、グユク家のホクとチャガタイ家のアルグの助けを得て東方への帰還を果たそうとするも、アルグの裏切りに怒ったアリクブケの中央アジア侵攻に巻き込まれ中央アジアの諸城を転々とすることになった。一方、耶律鋳も生き別れた妻子の捜索をクビライに依頼していたが、1267年(至元4年)に至ってようやく希亮らを見つけ出し、同年8月にようやく希亮らは東方に帰還しクビライに見えることができた。クビライは希亮の境遇を憐れみ鈔1000錠・金帯1・幣帛30を授け、ケシクのスクルチ・ビチクチに任じた。
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