軍の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 08:36 UTC 版)
1941年(昭和16年)より建設に着手したが、建設に伴い196戸が水没することから水没住民より強固な反対運動が持ち上がった。だが、日中戦争勃発後戦時体制へ突き進む陸軍・海軍は、海軍艦艇建造の要である横須賀海軍工廠や軍需産業が密集する京浜工業地帯への電力・用水供給を急いでいた。このため反対住民に対し荒木貞夫などが津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)へ出兵して陸軍閲兵式を行い、反対する住民に対して示威行為を以って強力な圧力を掛けた。 神奈川県及び山梨県の二県にまたがる水没補償は1938年10月より始まり、上記の経緯を経て1940年(昭和15年)11月3日に妥結された。このように有無を言わせず本体工事を着工させた戦時下ならではの軍による圧政があったことは、ダム建設の暗部として記憶されている。途中水害による設備の流出や戦争による中断を経て1947年(昭和22年)に完成した。 戦時下で進められた建設工事においては労働者延べ360万人が投入され、日本人のほか、多くの朝鮮人や中国人が従事した。過酷な労働下で、記録に残っているだけでも83人が命を落としたとされる(1979年以降、毎年7月末に地元有志らが合同追悼会を開催している)。
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