ワルシャワ条約機構軍の介入
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「アレクサンデル・ドゥプチェク」の記事における「ワルシャワ条約機構軍の介入」の解説
ワルシャワ条約機構軍は1968年8月20日夜から8月21日朝にかけてチェコスロバキアに侵攻した。条約機構軍はチェコスロバキア共産党中央委員会ビルを占拠して管理下に置き、ドゥプチェクら改革派の共産党幹部を逮捕してソ連軍の輸送機でモスクワに連行した。条約機構軍に対し、チェコ人とスロバキア人は非暴力による抵抗を続けたが、モスクワに連行されたドゥプチェクらは最終的に圧力に屈し、ソ連の要求に応じることを余儀なくされた。 ドゥプチェクと改革派幹部の身柄は8月27日、プラハに戻された。ドゥプチェクは引き続き第一書記の地位に留まることが認められたものの、改革政策は完全に頓挫した。翌1969年1月には、風邪と見られる症状を訴えてブラチスラヴァ市で予定していた演説を中止し入院した。市民の間では、モスクワに連行されていた間、ソ連指導部が暗殺を試みてドゥプチェクの食事のスープにストロンチウムを混入したことによる放射線被曝ではないかという噂が広がった。 1969年4月、スウェーデンの首都ストックホルムで開かれた世界アイスホッケー選手権でチェコスロバキア代表チームがソ連を破ったことを祝うために街に出たプラハ市民の一部が、駐留を続けていたソ連軍部隊や市内のアエロフロート(ソ連国営航空会社)事務所を襲撃する事件が発生。ドゥプチェクは事件の責任を取る形で第一書記を辞職した。同年、チェコスロバキア社会主義共和国の連邦制移行に伴って発足した連邦議会議長に選出された後、翌1970年までトルコ大使を務めた。これはドゥプチェクが西側に亡命することを期待した人事だったとの説もある。1970年3月21日、共産党機関紙はドゥプチェクの党員権が停止されたことを発表。さらに同年6月に大使を解任されて共産党から除名。スロバキア国民議会および連邦議会の議員の職も失った。
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