ワルシャワ蜂起におけるドイツの残虐行為
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「ポーランド人に対するナチスの犯罪」の記事における「ワルシャワ蜂起におけるドイツの残虐行為」の解説
詳細は「ワルシャワ蜂起」を参照 1944年のワルシャワ蜂起の際、ワルシャワを全滅させて「一つの湖」にしてしまえというヒトラーの命令に従って、ドイツはポーランド市民に対し数多くの残虐行為をはたらいた。もっともひどい例は市内のヴォラ地区で、1944年8月初めに何万人もの市民が計画的に検挙され、エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの総指揮下にあった親衛隊集団指揮官ハインツ・ラインファルトのグループ内で行動していた保安警察(Sipo)の別働隊や特別部隊によって処刑された。ヴォラ地区での集団処刑はヴォラの大虐殺とも呼ばれているが、この犠牲者にはこの地区の病院の患者や職員も含まれている。犠牲者の遺体はポーランド人から選別された人々で構成されたいわゆる焼却部隊のメンバーが集めて火葬にした。同じような大虐殺はシルドミェーシチェ地区(中央区)、旧市街地区、マリーモント地区、オホータ地区で行われた。オホータ地区では武装親衛隊カミンスキー旅団(RONA)のロシア人協力者によって市民の殺害、強姦、略奪が行われた。戦後に実施された死体発掘調査ではおよそ11,529トンもの人灰がこれらの地区から発見された。 1944年9月末まで、ポーランドのレジスタンス運動構成員はドイツ側に戦闘員とみなされず、一旦捕まると即決で処刑された。9月初めに旧市街が陥落するとそこの病院に収容されていた7千人の重傷者は処刑されるか生きたまま焼き殺された。医療従事者も巻き添えとなって殺された。後に同様の大虐殺がチェルニァークフ地区でも行われた。ポヴィーシレ地区とモコートゥフ地区が陥落するとそこで捕らえられた蜂起参加者の多くも絞首刑などで殺害された。 生き残った45万人の市民のうち、9万人は労働収容所へ送られ、6万人は絶滅収容所かその他の強制収容所へ移送された。ワルシャワ蜂起での大虐殺については鎮圧部隊の総指揮をとったバッハ=ツェレウスキーも部隊の指揮官であったハインツ・ラインファルトも罪に問われなかった。
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