連邦軍総監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/11 04:57 UTC 版)
「ウルリッヒ・デメジエール」の記事における「連邦軍総監」の解説
1966年8月、スターファイター疑獄の最中、制服組と国防省官僚の対立を理由にハインツ・トレットナー連邦軍総監が辞任すると、デメジエールは大将に昇進して後任の第4代連邦軍総監に就任した。連邦軍将校の多くは、トレットナーや空軍総監ヴェルナー・パニツキの辞任とデメジエールの就任を、官僚に対する譲歩ととらえた。デメジエールの任期中、西ドイツは1968年の学生運動や兵役拒否運動、デモ行進の頻発に直面した。同年8月にプラハの春に対するワルシャワ条約機構軍の介入があった際には、連邦軍は警戒態勢に入ってデメジエールが一日に二度ゲアハルト・シュレーダー国防相に事態の説明を行った。 1969年のドイツ連邦議会選挙でドイツ社会民主党政権が成立してヘルムート・シュミットが国防相に就任すると、その下でデメジエールはドイツ連邦軍改革を推進した。士官任官希望者不足に対応してハンブルクとミュンヘンに連邦軍大学を設立し、専門教育を行った。さらに技術将校課程を導入し、下士官の将校任官への道を開き、大尉までの昇進を可能にした。社民党政権はデタント政策に伴い連邦軍大学での参謀教育を廃止しようとしたが、デメジエールの抵抗で諦めざるを得なかった。代わりに将校教育課程での社会学の講義が導入された。またデメジエールの任期中の1971年2月、兵役義務期間が18ヶ月から15ヶ月に短縮された。デメジエールは1972年3月に退役した。
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