連邦銀行の仕組み
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「アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)」の記事における「連邦銀行の仕組み」の解説
詳細は「第一合衆国銀行」および「第二合衆国銀行」を参照 無効化問題が決着する前に、ジャクソンの指導力は新たな問題に直面することになった。それは合衆国第2銀行を再度国有化することであった。第一合衆国銀行はアレクサンダー・ハミルトンの主導で1791年に設立され20年以上も国有のものであった。政府はその株式を保有していたが政府銀行ではなく、利益は株主に配当される民間会社であった。通貨を安定させ貿易を促進することが意図されたが、西部の市民や労働者は少数の有力な人に特定の恩恵を与えるものとして不満を表明した。第一合衆国銀行の国有は1811年に解消され、その後は変わっていなかった。 次の数年間、銀行業務は州の管轄する複数の銀行の手により行われたが、過剰な通貨を発行して大きな混乱を生み、インフレーションと州立銀行では統一された通貨体系を維持できないという懸念を増幅させた。1816年、第一合衆国銀行に似た第二合衆国銀行が再び20年間国有化された。 合衆国第2銀行はその始まりから、新しい州や領土および財産の少ない人々に不人気であった。反対者は銀行が国の信用と通貨の上に仮想の独占を果たしていると主張し、再び少数の富める人々の利益を代表していると訴えた。ジャクソンは庶民の代表として選ばれた者として、銀行の再国有化法案に拒否権を発動した。ジャクソンは議会演説で独占と特別の権益を非難し、次のように言った。「我々の富めるものは平等な保護と平等な利益に満足していなかったが、議会立法によってさらに富を増やしたいと切望していた。」拒否権は覆らなかった。 それに続く大統領選挙の期間中、銀行問題は基本的に2つの区分を生じさせることになった。1つは商人、製造業および投資関係者であり、一般に金融引き締めや高い利率の恩恵を蒙っていた。もう1つは労働者や農場経営者であり、しばしば銀行から借金しておりそれ故に通貨の流通量を増大させ利率を低く抑える方を好んだ。その結果は「ジャクソン主義」の熱狂的な是認であった。ジャクソンは1832年の大統領選挙を、無条件に銀行を潰すことに対するの民衆の委任と受け取った。また銀行の国有化法において公的な資金を排除することを承認させる出来合いの武器を見出すことにもなった。 1833年9月、ジャクソンは政府の金を今後銀行に預託せず、すでに預託されているものは政府の支出に従って順次引き揚げていくという命令を発した。州立銀行の幾つかを慎重に選び、厳格な制限の中で金融政策を代行させるものとした。次の世代になると、合衆国は比較的制約の少ない州立銀行の仕組みで生き延びていき、これが少ない保証で西方への拡張を加速させることになったが、周期的に訪れる金融恐慌に対しては脆弱なままであった。南北戦争のときに合衆国は再び国立銀行を作ることになる。
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