白軍時代
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「ヴラジーミル・ピールキン」の記事における「白軍時代」の解説
ロシア内戦では、N・N・ユデーニチ歩兵大将の北西ロシア政府で海軍大臣を務めた。 1919年1月4日には、N・N・コロメーイツェフ海軍中将の家にて、元第1艦隊水雷艇隊長で男爵のP・V・ヴィーリケン海軍大佐と、元の戦列艦「ペトロパヴロフスク」の砲術士官であったA・N・ルシュコーフ海軍中佐と出会った。彼らは、のちにピールキンの最も信頼する部下となった。 1920年1月22日付けのユデーニチ将軍の指令により、北西軍の全兵士ならびに将校は武装解除され、軍務から解放された。ピールキンは「解散委員会」の一員に任命された。その過程で、A・V・コルチャークやA・I・デニーキン将軍ら、ほかの白軍組織への支援の意味もあり、それらへ移ることを希望する者についてはその移動を援助した。4月1日までにすべての業務を終え、レーヴェリからゲリシンクフォールスへ移動した。 4月13日には、家族とともにコペンハーゲンへ渡った。そこで彼は、通報船「キトボーイ」船長のO・O・フェールスマン海軍大尉と会った。彼は「武器で自衛する」と宣言すれば、イギリス人は敢えて艦を拿捕しないだろう、とピールキンへ明かした。この件には、クリミアから祖国デンマークへ逃れてきた皇后マリーヤ・フョードロヴナの手紙が関係していると見られた。彼女の姉妹は、イギリス女王であったのである。フェールスマンの「キトボーイ」はアンドレイ旗を掲げてヨーロッパを周り、セヴァストーポリにあるP・N・ヴラーンゲリ将軍のロシア軍との合流に成功した。しかし、ピールキンは彼に同行しなかった。 4月18日にはルシュコーフ海軍中佐とともにイギリスへ渡り、翌19日にロンドンへ入った。そこではA・A・アバザー海軍中佐と面会し、彼が設立したコルチャーク政府の偵察機関「O.K.」に北西軍司令部のピールキン提督は参加した。コルチャークが自身の敗北を悟ったとき、彼はアバザーに30000 ポンドの資金を渡すことを決めたが、結局10000 ポンドしか引き渡されなかった。ピールキンはアバザーの仕事を引き継ぎ、8月までに沿バルト地方にて月300 ポンドを反ボリシェヴィキ活動へ供給した。 1920年4月24日夕刻には、フランス・パリへ移動した。翌25日日曜日には、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂にてユデーニチ夫妻と面会した。ユデーニチは再会をとても喜んだが、ピールキンはユデーニチが彼らしくもなくすっかり柔和になってしまっていたことに心を痛めたと日記に記している。 ピールキンはパリにても「O.K.」の活動を続けており、同じくロンドンからパリへ移動してきたアバザーと定期的に会合を持っていた。しかし、1920年4月29日にユデーニチ将軍のもとで行われた会合にて「『O.K.』の仕事はもはや誰にも必要ない」と決議した彼の友人や元総司令官に反対を唱えた。ピールキンは「O.K.」の存続を訴えるとともに、「ロシアにてあとはただ指示を待つばかりの組織とともに、蜂起を起こそうではないか?」と説いた。恐らく、ピールキンはV・N・タガーンツェフ大佐のペトログラード軍事組織と関係を持っていたと見られている。 ユデーニチ将軍はピールキン提督に折れて、アバザーの組織への臨時的資金援助に合意した。その組織の支援により、ロシア国内ではいくつかの蜂起が行われ、ボリシェヴィキは恐ろしいパニックに陥ったとされている。その後も、ピールキンはユデーニチを助けて白色活動の支援を続けた。 1920年末にはユデーニチ将軍はニースへ移動し、ピールキン提督へスウェーデンとフランスの銀行にある資金の権限を委任した。1921年3月には、ピールキンヴィーリケン海軍大佐らとともに叛乱下のクロンシュタットに滞在した。
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