北西軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 14:50 UTC 版)
「ニコライ・ユデーニチ」の記事における「北西軍」の解説
詳細は「北西軍」を参照 1919年5月から6月にかけて、ユデーニチは北西軍のペトログラード進撃を指揮した。彼の軍隊は5月15日にグドーフ、5月17日にヤーンブルク、5月25日にプスコーフを掌握し、さらにルーガ、ロープシャ、ガッチナに迫った。神憑り的な軍事的成功によって、ユデーニチは自分の政府を獲得することとなった。5月24日、ヘルシンキにおいて彼は北西ロシア政府の成立を宣言した。6月10日、最高支配者アレクサンドル・コルチャークは公式にユデーニチをこの地域における軍総司令官に任命した。6月19日には、北西軍へ統合された。しかしながら、6月21日には赤軍の反攻が開始され、ユデーニチの軍は敗北を喫することとなった。彼の軍は、わずかにナルヴァ=グドフ橋頭堡を持ち堪えることしかできなかった。彼によって結ばれたマンネルヘイムとアルハンゲリスクの北部臨時政府との協同作戦は、マンネルヘイムの主要条件であったフィンランド独立の承認をコルチャークとデニーキンが拒んだために実現しなかった。ユデーニチの軍事的敗北と沿バルト海諸共和国との溝の拡大は、連合国を白色運動の左派グループに向かわせることとなった。8月11日には、イギリス軍のF・マーシュ将軍のイニシアチヴによって政治会議(Политическое совещание)がロシア北西部政府に取って代わった。政治会議にはカデット党員、エスエル党員、メンシェヴィキらが参加し、エストニアの主権(統治権と外交権)を確認した。ユデーニチは、独裁的全権を失った。彼は軍大臣に任命され、その役割は軍事面に限定されるようになった。 1919年9月から10月にかけて、ユデーニチはペトログラードに向けて2度目の遠征を行った。9月28日、北西軍はエストニア軍と協同で赤軍の防衛線を突破した。10月12日には、ヤーンブルクを占領し、10月後半にはルーガ、ガッチナ、クラースノエ・セロー、デーツコエ・セロー、パーヴロフスクを掌握した。10月中旬には、白衛軍はペトログラード間近のプールコヴォ高地に迫った。しかしながら、彼らはニコラエフスカヤ鉄道を遮断することができず、同線はソヴィエト・ロシアに対して食料弾薬を運搬し続けることとなった。フィンランド人とイギリス人は、効果的な支援を行わなかった。エストニア人はユデーニチの大国志向に反発を抱いており、さらにボリシェヴィキは極めて大きな政治的譲歩を約束したため、エストニア人とロシア人との間で軋轢が高まった。蓄えは枯渇し、前線は伸びきった。10月21日、反撃に転じた赤軍は白軍の進攻を食い止め、10月22日その防衛線を突破した。11月末までにユデーニチの軍隊は国境まで押し戻され、エストニア領内に逃れた。そして、その地においてロシア軍はかつての同盟国によって武装解除を受け、抑留された。1920年1月22日、ユデーニチは北西軍の解隊を布告した。1月28日、彼はエストニア政府によって逮捕され、連合国代表の要求によって釈放された。
※この「北西軍」の解説は、「ニコライ・ユデーニチ」の解説の一部です。
「北西軍」を含む「ニコライ・ユデーニチ」の記事については、「ニコライ・ユデーニチ」の概要を参照ください。
- 北西軍のページへのリンク