北西航路の探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:34 UTC 版)
一方、アメリカ大陸側においても北西航路の探索がすすめられていた。1576年から1578年にかけてはマーティン・フロビッシャーが3度の北西航路探索を行い、バフィン島にまで到達している。1585年から1587年にかけてはジョン・デイヴィスがデービス海峡を抜けてバフィン島へ到達し、1610年にはヘンリー・ハドソンが探検を行い、ハドソン海峡をはじめて抜けてラブラドル半島の北端を回ってハドソン湾へと到達したが、南端のジェームズ湾で越冬中に命を落とした。その後、1668年にイギリス船ノンサッチ号がハドソン湾に再び進入し、沿岸のインディアンと毛皮の交易に成功した。これを受け、1670年にハドソン湾会社が設立されて、ハドソン湾及びハドソン湾に注ぐすべての河川の流域(ルパート・ランド)を含む交易独占権を得た。これにより、ハドソン湾沿岸各地にハドソン湾会社の交易所が建設され、ハドソン湾までの交易ルートは確立したものの、それ以西の探検はいまだ進んでいなかった。 18世紀後半になると、ハドソン湾会社の毛皮交易独占に対抗すべく設立された北西会社が盛んに探検隊を北アメリカ大陸北部へと送るようになり、そのうちの一人であるアレグザンダー・マッケンジーは1789年、カナダ中部のアサバスカ湖からマッケンジー川を伝って北上し、北極海へと到達した。 その後もジョン・ロス、ウィリアム・エドワード・パリーなど多くの探検家によって北西航路探索は続けられたが、1845年に出発し消息を絶ったジョン・フランクリン探検隊など、遭難するものも多かった。1854年にはロバート・マクルアーがベーリング海峡から西へ向かうルートで北西航路踏破をめざし、船は途中で沈没し放棄されたものの、東から進んできた別の探検船に救出され、ソリを使ったものの一応踏破には成功した。しかし、船による完全通航の成功は1903年のロアール・アムンセンまで待たなければならなかった。1909年には、北極海上の氷上にある北極点にロバート・ピアリーが到達した。1926年5月9日には、スヴァールバル諸島がら出発したリチャード・バードによって航空機による初の北極点到達が成し遂げられている。
※この「北西航路の探索」の解説は、「北極海」の解説の一部です。
「北西航路の探索」を含む「北極海」の記事については、「北極海」の概要を参照ください。
- 北西航路の探索のページへのリンク