北西航路の歴史の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:24 UTC 版)
15世紀終わりから20世紀にかけて、欧州列強諸国は航海者や探検家を各大洋に送り出し、東アジアに向かう海路を発見しようとした。いわゆる大航海時代である。その中でアフリカ大陸南端の喜望峰からインド洋に出る航路、大西洋を横断しメキシコ東岸に到着、さらに西岸から太平洋の向こうのアジアに至る航路がスペインやポルトガルによって開発されていたが、それを決定づけたのが1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でスペインとポルトガルの間に結ばれたトルデシリャス条約である。これによりヨーロッパ以外の新発見の土地の両国間での分割(デマルカシオン)が取り決められフランス・オランダ・イギリスといった後発の諸国は、新領土の獲得競争からも既存のアフリカ回り・南アメリカ回りのアジア行き航路からも締め出された。事態を打開し、より短いアジアへの航路を発見すべく、イギリスはヨーロッパから北西に向かい北アメリカの北岸を回ってアジアに至る仮説上の航路を北西航路(Northwest Passage)、ヨーロッパから北東へ向かいシベリア沖を経てアジアに至る同じく仮説上の航路を北東航路(Northeast Passage)と呼び、とりわけ北西航路の発見を目指した。すでに中南米を確保していたスペインも、イギリスやフランスより先に北西航路を発見しようとした。こうして、アジアへの最短航路発見の夢が、ヨーロッパ人による北アメリカ大陸の東海岸と西海岸に対する探検活動の動機となる。 当初、探検家たちは北アメリカ大陸中央部を横断する海峡や河川の発見を目指したが、そういうものがないことが分かると、北の方からアメリカ大陸を回る北西航路の探索に注目した。今日では酷寒の地と分かっている北極圏において、根拠もなく安定した航路の存在が信じられていたわけではない。例えば夏期においては白夜により夜間の気温低下が発生しないため、北極点周辺の海は結氷しないという推論や、18世紀半ばジェームズ・クックの報告により南極海の氷山が真水でできていることがわかり、海水は凍らないという仮説が存在した。このような原因で北極海中央が海水面であるとすれば、流氷や氷結によって航行が阻害されるのは大陸周辺の一部海域のみということになり、航路の設定も可能なはずとされた。また海流や海路についての研究を成し遂げた19世紀半ばのアメリカ海洋学の父マシュー・フォンテーン・モーリーは、北大西洋で捕獲されたクジラから北太平洋の捕鯨船のモリが見つかったことから太平洋と大西洋が北極海でつながっていると推論し北西航路や北東航路の可能性を主張した。同時にモーリーは、メキシコ湾流や黒潮など北方へ向かう暖流が北極海で海面に上昇すると考え、北極点付近には氷がなく航行可能な開水域が広がっていると推論した。このように北西航路の存在は当時としては妥当とされた科学的考察に基づいたものだったのである。 こうした説が広く信じられたことから、何世紀にも亘り北西航路を求めて極寒の海に探検隊が送り続けられることになる。彼らの中には悲惨な失敗をたどったものも少なくない。特に有名な失敗は、1845年に出発したジョン・フランクリンによる北西航路探検隊の全滅である。1906年になりようやく、ロアール・アムンセンがヨーア号(Gjøa)でグリーンランドからアラスカまで航海することに成功した。これ以後、氷圧に耐えられる船による航海が何度も行われている。
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