北西部の平定とは? わかりやすく解説

北西部の平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:24 UTC 版)

左宗棠」の記事における「北西部の平定」の解説

同治5年1866年)には陝甘総督転任イスラム教徒ドンガン人回族)の蜂起回民蜂起鎮圧任じられ遂行動いた。しかしこの最中捻軍暴れ回ったため、回民後回しにして捻軍討伐優先したこの頃捻軍李鴻章活躍東西分裂、かつての勢い無くなっていたため、左宗棠魏光燾饒応祺袁保恒陳湜宋慶趙秉鈞などを率いて李鴻章と共に捻軍討伐開始張宗禹率いる西捻軍平定専念し同治6年1867年)に東捻軍李鴻章淮軍包囲され壊滅、西捻軍も翌7年1868年6月追い詰められ平定された。 そうして背後の安全を確保すると、同年10月改め回民蜂起鎮圧出動任地陝西省甘粛省進軍し陝西西安入った。まずは北西の董志塬に駐屯する白彦虎回民軍を撃破陝西平定したが、馬化龍残存勢力甘粛東部の金積堡に籠城して抵抗左宗棠同治8年1869年)から包囲開始した。しかし抵抗長引き北京政府からは召還の声が上がり同治10年1871年1月には責任感じた部将劉松山夜襲仕掛け失敗して戦死する痛手まで被った。しかし劉松山の甥劉錦棠雪辱を果たすため金積堡を急襲、ようやく金積堡を陥落させ馬化龍処刑してから任務順調に進み回民への対応として逃亡民を呼び戻し定住土地開墾および食糧援助行ったため回民抵抗徐々に下火になった同年11月臨夏占領していた回民首領1人馬占鰲が降伏甘粛中部手に入り12年1873年7月蘭州進駐した。劉錦棠甘粛東部回民討伐出向西寧馬桂源討ち東部制圧した。残る粛州現在の酒泉市)に籠もる馬文禄は一旦帰順していたが、陝西から逃亡した白彦虎呼応して反旗を翻し左宗棠派遣していた徐占彪・楊世俊の包囲に耐えていた経緯があるため、7月左宗棠包囲指揮執り9月粛州落として馬文禄処刑陝西甘粛などの河西回廊を含む中国北西部平定された。

※この「北西部の平定」の解説は、「左宗棠」の解説の一部です。
「北西部の平定」を含む「左宗棠」の記事については、「左宗棠」の概要を参照ください。

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