白軍司令官
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「ミハイル・パーヴロヴィチ・サーブリン」の記事における「白軍司令官」の解説
1918年末には、南ウクライナは連合国の進駐軍によって掌握され、黒海艦隊艦艇もまた、連合国軍によって拿捕された。1919年初頭には、黒海船舶・港湾総指揮官に就任した。1919年3月25日で、無能を理由に更迭されたヴァシーリー・カーニン(ロシア語版)海軍大将にかわって南ロシア海軍司令官に就任した。しかし、カーニンがフランス海軍の下請けでしかなかったために南ロシア軍は独自の行動を取ることができない状態になっており、4月2日にはフランス側の都合の赤軍との取引によって南ロシア軍はセヴァストーポリからノヴォロシースクへ撤退させられることとなった。サーブリンがセヴァストーポリから連れ出せたのは、巡洋艦「カグール」や潜水艦「チュレーニ(英語版)」など一部の艦船だけであった。彼はこの巡洋艦でノヴォロシースクへ向かいながら沿岸を巡視し、ロシア船舶が助けを必要としていないか監視しつつ数日を掛けて目的地へ移動した。 4月には、フランス海軍がセヴァストーポリから撤退するのに関連し、その管理下にあったセヴァストーポリの黒海艦隊艦船のほとんどはセヴァストーポリに接近した第2ウクライナ赤軍代表との取引により爆破処分された。一方、フランス提督の管理下にあったセヴァストーポリ軍港の管理権は南ロシア軍に返還され、4月19日にサーブリンはセヴァストーポリ軍港長官と黒海港湾長官に就任した。そして、この任を1920年2月1日まで務めた。1919年5月の時点で、義勇軍行動艦隊の保有する活動できる軍艦は巡洋艦「カグール」、艦隊水雷艇「ジヴォーイ」、河川砲艦「K-15」、潜水艦「チュレーニ」、通報船「ブーク」、第7号通報船、「グラーフ・イグナーチエフ」、2 隻の武装曳船「ポレーズヌイ」と「ニコライ・パーシチ」しかなかった。加えて、蒸気船「ツェサレーヴィチ・ゲオルギー」に3 門の砲を搭載し、補助巡洋艦「ゲオルギー」とした。サーブリンは、艦隊勢力の増強を目指して各地に放棄してある艦船を調査し、非武装船に武装を施すなどして次第に白色艦隊の力は増加していった。 1919年6月には、サーブリンはノヴォロシースクのデニーキン将軍の司令部の下に置かれた海軍局にあった。連合国はイスタンブールに黒海艦隊の主要艦船を持ち去っていたが、戦列艦「ヴォーリャ」や新しい艦隊水雷艇をはじめとするそれら艦船をデニーキン将軍の司令部に引き渡すことに合意した。6月17日には、南ロシアでの水兵叛乱の勃発によってフランスは戦闘への干渉をやめた。しかし、それでも白軍は赤軍を圧倒し、6月24日には赤軍司令部はセヴァストーポリを撤退し、黒海艦隊艦船は義勇軍に接収された。7月6日には南ロシア海軍黒海・アゾフ海港湾・船舶総指揮官サーブリン提督が彼の司令部とともに巡洋艦「カグール」に乗ってセヴァストーポリへ帰還した。1年ぶりに司令部艦「ゲオルギー・ポベドノーセツ」に戻ったサーブリンはそこに艦隊司令官旗を掲げ、セヴァストーポリはこの日から再び艦隊主要基地となった。 自分の艦隊を手に入れたサーブリンは、陸上部隊への支援作戦を中心とした軍事作戦を積極的に立案、遂行した。1919年夏にクリミア半島を奪還した際のアク=マナーイ陣地の防衛戦や偵察、上陸作戦への支援、戦列艦「ゲネラール・アレクセーエフ」を主力とする白色艦隊と赤軍のオチャーキウ(ウクライナ語版)砲台との砲撃戦、ドニエプル=ブーフ潟の突破作戦、ヘールソンとムィコラーイウの占領に際する歩兵部隊との協同作戦、オデッサへの上陸作戦といった、白軍が実施した多くの軍事作戦において、サーブリンはその比類なき能力を発揮した。白色黒海艦隊は設備や資金、燃料の不足から壊滅的な状況にあり、規模もかつてのそれとは比較にならないほど縮小されていて、あたかも日本海海戦かクリミア戦争後のロシア艦隊のような状況に陥っていたにも拘らず、サーブリン指揮下の艦隊は見事に陸上部隊を支援し、敵部隊を撃退したのである。 ところが、1919年8月20日にはサーブリンは艦隊司令官を解任され、ドミトリー・ネニューコフ(ロシア語版)海軍中将と交替した。これは、シベリアからパリ経由で送られた命令によるもので、最高統治者コルチャークがサーブリンの解任を求めたためであった。サーブリンも、また総司令官デニーキンもこれは陰謀であると感じていたが、結局サーブリンは更迭された。サーブリンは、かわりに港湾総指揮官に任官した。 1920年2月8日にはネニューコフ艦隊司令官が方針の違いと越権を理由にデニーキン総司令官によって更迭され、サーブリンが三度目の艦隊司令官の座に就いた。しかし、サーブリンが病のため、実質的にはネニューコフが任務を続けた。この時期、クリミアはヤーコフ・スラシチョフ(ロシア語版)将軍の活躍により何とか持ち堪えている状況であったが、サーブリン司令官は彼の部隊に協力して作戦を遂行していたものの、結局その率直な性格が災いして諍いが生じ、司令官職を解任された。2月17日付けで、艦隊司令官はアレクサンドル・ゲラシーモフ(ロシア語版)海軍中将に交替した。 しかし、3月22日に総司令官がピョートル・ヴラーンゲリ将軍に交替すると、ゲラーシモフ艦隊司令官は「人間は素晴らしいが、柔和で決断力に欠ける」ことを理由に更迭されることになった。4月19日には、サーブリンは艦隊司令官と南ロシア政府の事実上の海軍大臣であるロシア軍海軍局長に任命された。4月28日からはネニューコフが彼の代わりを務めた。その後、艦隊司令官の任はふたりのあいだでしばしば交替された。それでも、サーブリンはヴラーンゲリ総司令官の期待に応え、一連の新しい軍事作戦を支援し、その持ち前の毅然たる有能な提督ぶりを発揮した。彼の評価は高く、その病が刻一刻と彼の体を蝕んでいったにも拘らず、最後まで作戦遂行にかける意欲は衰えなかった。 1920年9月には肝癌が悪化し、10月12日に艦隊司令官は臨時にミハイル・ケドーロフ(ロシア語版)海軍中将に交代した。結局、サーブリンの病は癒されることはなく、1920年10月17日にケルチにて没した。セヴァストーポリに葬られた。 黒海艦隊司令官は同日付けで正式にケドーロフ海軍中将に交代した。彼はロシア艦隊を率いて永久に祖国をあとにしたが、それはサーブリンが生前、船団の亡命のために必要な石炭や燃料を確保しておいてくれたためにできたことであった。
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